明治14年頃、兵庫今出在家町の魚谷やすが娘の眼病で悩んでいたところ、親戚の勧めにより、大阪は西区本田鍋屋組の立花善吉氏を訪ねた。立花善吉氏は、同本田三丁目の井筒梅治郎氏の導きによって入信し、天理教を熱心に信仰していた。
 そこで、神様にお願いをしてもらったところ、不思議なおたすけを頂いた魚谷やすは、その大きな神恩に感涙しつつ、兵庫今出在家の自宅へ戻り、たすけて頂いた喜びをそのままに「天理王命(てんりおうのみこと)様は、大した神様や」と吹聴して歩いた。それが大きなにをいがけとなって、兵庫今出在家町一帯の人々に、はじめて「天理王命」の神名が伝わることとなった。 

 そんな中、同町の上田藤吉が、娘の脚病のたすかりを願い入信する。
明治14年旧4月、大阪で井筒梅治郎氏を講元として、大阪真明組が結成されると、同年旧6月上旬の某日、井筒氏ほか数名の講員が兵庫今出在家町へ訪れ、上田藤吉を講元として兵庫真明組が結成される。しかし、講元である上田氏の身辺に事情が起こり、兵庫真明組は程なく自然消滅のような状態となっていった。


 これで、兵庫の信仰が途絶えたかに思われたが、唄こふじという一人の女性によって隣町の和田崎町へ信仰が伝わり、本田せいなどの入信により、兵庫の信仰は一気に伸び広がった。
 この頃、のちに兵神真明講講元となる端田久吉、赤松平四郎、冨田傳次郎、冨田氏の実母・藤村じゅん等が入信した。こうして、和田崎町の人々を中心に講社を結ぶ機運が起こる。

 かくて、明治15年旧8月、端田久吉を講元とする真明講社兵庫一号が結成され、少し遅れて、赤松平四郎を講元とする神明講社第二組が結成された。この講社結成の機運は各地へも広がり、明治15年、三木真明講(三木)、山田真明組(舞子)、二子真明講(眞加)が結成された。
 翌明治16年には、神戸三宮町の清水與之助が入信する。また、神戸元町の増野正兵衛が入信し、この両名は後におぢば(現・天理教会本部)の御用を務め、真明講社兵庫一号では、周旋方としても活躍する。
 端田久吉を講元とする真明講社兵庫一号は、明治17年4月、神明講社第二組が合流したことにより、一時、「兵庫真明組第二番」と改称したが、明治19年1月、「兵神真明講」と改称した。

 明治21年に天理教会が設置されると、兵神真明講でも分教会の設立を願い出ようとの機運が高まり、明治22年(1889年)1月15日に清水與之助(しみずよのすけ)を初代会長として教会設立お許しを頂いた。そして、同年6月4日に開筵式が執行された。

初代会長  清水與之助
下山手通りの教会
板宿時代の神殿