風の便り(先月号以前のもの)

『芳洋』R186.2月号「風」より

 みなさま、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。
 先月号では、「教祖が赤衣を召される」という節目の重要性について述べさせていただきました。今月は、教祖がはじめて赤衣を召される直前に起こった、ある出来事について私の考えを述べさせていただきたいと思います。
 
 明治7年12月(陰暦11月)のある日、教祖は、仲田儀三郎、松尾市兵衛の二名の高弟に対して、「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と仰せられました。そのご指示を受けた仲田、松尾の両名は、意気揚々と大和神社へ乗り込んでいったのですが、信仰心の篤いお二人のことですから、議論がヒートアップし先方と激しい口論となりました。

 すると、大和神社の神職達は怒り出し、中山家の氏神である石上神宮へ苦情を申し立てたため、翌日には石上神宮から五名の神職たちが、おやしきへ乗り込んできました。
 教祖は、その神職たちに対して、親神様のご守護について詳しく説き諭されましたが、聞いていた神職たちが「その話が本当であれば、学問は嘘か」と反論するので、教祖は、「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと、世界へ教えたい」と仰せになられました。
 神職達の言う「学問」というのは、『古事記』や『日本書紀』といった、いわゆる「記紀」と呼ばれるもののことで、つまり、文字の仕込みによって人間が編纂してきた神話や歴史のことです。
一方、教祖が仰せられる「学問に無い、古い九億九万六千年間のこと」というのは、その文字の仕込み以前の、誰も知ることのなかった「この世と人間の元初まりの真実」、このことを仰せられているのです。
しかし、大和神社も石上神宮も古事記、日本書紀に記される神を祀る由緒ある神社です。ですから、「記紀」を否定されるということは、神社のルーツや根拠を否定されるに等しいわけですから、黙ってはおれません。その神職達が「天理王命、などという、古事記、日本書紀にもない神名を唱えることは極めて不都合である」と言って警察に訴え出たため、すぐさま巡査がやってきてご神前の鏡や御簾などを没収していきました。

 このことがきっかけとなり、明治七年十二月二十三日、教祖が赤衣を召される三日前、奈良中教院からの呼び出しがあり、教祖は山村御殿・円照寺で、奈良県庁社寺掛の取り調べを受けられることとなります。
この日の取り調べは、さしたることもなく終わりましたが、このことをきっかけに、警察はおやしきへ参詣人が出入りしないようにと厳重な取り締まりを開始することとなるのです。
 
 では、なぜ教祖は「大和神社へ行き、どういう神で御座ると、尋ねておいで」と仰せられたのでしょうか? 「おふでさき」の第13号に、
 
月日にわせかいちううをみハたせど  もとはじまりをしりたものなし 13号30
このもとをどうぞせかいへをしへたさ  そこで月日があらわれてでた  13号31
月日にハこのしんぢつをせかへぢうゑ  どうしてなりとをしへたいから 13号33
 
とあります。
 親神様は、世界一れつの子供をたすけるために、この世と人間の元はじまりの真実を何としてでも世界中の子供たちに教えたい。親神様は、そのためにこの世の表に現れ出たのだ、とまで仰せられているのです。
「世界一れつの子供をたすけ上げたい」と思召される親神様にとって最も残念なことは、日本のルーツとして信じられていた『古事記』や『日本書紀』には「いざなぎのみこと」「いざいなみのみこと」などの神名が出て来ますが、その内容は、教祖がお説き明かしくださる「元はじまりのお話」とは全く異なるものであったことです。
 本来ならば、月日様が「うを」と「み」に最初に約束された通り、私たちは人間の元の親である「いざなぎのみこと」「いざいなみのみこと」を「この世の一の神」「親神」と讃えて、そのご恩に報いなければなりません。ですから、おそらく親神様は智恵の仕込みを通して、親の恩に報いる方法を古くから教えて来られたはずだと思います。しかしながら、中国大陸や朝鮮半島の進んだ文化や社会制度が積極的に取り入れられた飛鳥時代の頃になりますと、各地に伝わる言い伝えや物語などの智恵の仕込みが、当時の政権に都合よく捻じ曲げられ、利用されてしまったのだろうと思います。それゆえに、人間の元の委細が分からなくなってしまったとするならば、その元を正すことこそが、親神様にとって最も大切なことだっだのだろうと思います。

さらに、教祖は「元はじまりのお話」をお聞かせになる前には、
 
「今、世界の人間が、元をしらんから、互に他人と云ってねたみ合ひ、うらみ合ひ、我さへよくばで、皆、勝手/\の心つかひ、甚だしきものは、敵同士になって嫉み合ってゐるのも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。なれど、この儘にゐては、親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見てゐられぬ。それで、どうしても元をきかせなければならん」と、云ふことをお話しになり、それから、泥海中のお話をお説きになり、しまひに、「かういふ訳故、どんな者でも、仲善くせんければならんで。」山名大教会『初代会長夫妻自傳』
 
とお話しになられていたと伝えられています。「おふでさき」に、
 
をやこでもふう/\のなかもきよたいも  みなめへ/\に心ちがうで  5号8
 
と仰せられるように、人には、それぞれ自分の中の価値観や正義というものがあって、それぞれ自分の都合というものがあるものです。また、国には国の、民族なら民族の都合や正義というものがあるわけですから、お互いに自分の正義が一番正しいと言って主張し合えば、この世から争いはなくなりません。だからこそ、親神様は、この世と人間の元はじまりの真実を明かし、一れつの人間が同じ親を持つ兄弟であることを伝えて、助け合わなければならないとお教えくだされたのだと思います。
 
 人間は、親神様の智恵の仕込みによって、古くから神様のご存在については知っていました。しかし、私たちは、教祖が「この世と人間の元はじまりの真実」を説き明かされたことによって、月日様が元なる親であること、そして、人間が生み出された本当の目的を知ることができました。また、神様が人間を裁き、罰を与える存在ではなく、常に温かい親心で我が子をお見守りくださりお育てくださるご存在であり、信じてお縋りしてもよい、親なるご存在なのだということを知ることができました。
 これこそが、智恵の仕込みで教えられて来なかった「だめ」の教えだと思います。
 
 ところが、明治時代に入りますと、それまでの武士による支配体制が崩壊し、天皇陛下を中心とする国家体制に切り替えようとする明治政府が、『古事記』『日本書紀』を根拠に、天皇を現人神とする「国家神道」体制を立ち上げようと動き出しました。
 現人神というのは、「この世に人間の姿で現れた神」を表す言葉ですから、つまり「生き神様」ということです。その生き神様である明治天皇を中心とした国家神道体制の確立を目指している最中でした。
その皇室の正当性を明らかにするための根拠となるのが『古事記』『日本書紀』といった歴史書です。ですから、これを否定するような動きは決して看過することはできません。また、自由民権運動の高まりや不平士族によって起こされた西南戦争は政情不安を引き起こす恐れがあり、その中で、西欧列強諸国は日本の政情不安に乗じようと虎視眈々と隙を窺っている状況でもあったため、民心を乱すと見做されるような動きは厳しく見張られ、取り締まられていました。
 
 教祖が、山村御殿・円照寺で取り調べを受けられた翌々日の25日には、奈良中教院から、辻、仲田、松尾の三名が呼び出され、「天理王という神はない。拝むのならば石上の大社の神を拝め」と信仰の差し止めを言い渡され、再びおやしきにある神具を没収していきました。
これに関して、ちょうどこの頃書かれた「おふでさき」第6号には、
 
月日よりつけたなまいをとりはらい  このさんねんをなんとをもうぞ  6号70
しんぢつの月日りいふくさんねんわ  よいなる事でないとをもゑよ  6号71
 
と仰せられています。
こうした流れの中で、この翌日の12月26日に、教祖は突然「赤衣を着る」と仰せられ、はじめて赤衣を召されることとなるのです。
この後、赤衣を召された教祖は、世界たすけに向かって一気に歩みを早められ、着々と準備を進められていくのです。

今月はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

『芳洋』R186.1月号「風」より

 みなさん、こんにちは。日頃は、ありがとうございます。
兵神の理につながる皆様におかれましては、本年も一年、それぞれのお立場の上に、またお道の御用の上に精一杯の誠真実をもっておつとめくださったことと存じます。心より厚く御礼申し上げますとともに、新たに迎えます年が、皆さまにとって健やかな喜び多い一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。
 
 そして、先月号で、教祖140年祭に向かう兵神大教会の年祭活動の方針をお伝えさせて頂きましたが、立教186年の成人目標も、これに合わせて、
【教祖のひながたを手本に、〝明るい心〟で通りきろう】
とさせて頂きたいと思います。新たな年も、どうぞよろしくお願いいたします。
 
 さて、今回は、教祖のお話の続きです。
 
 私たちが「教祖のお姿」として頭に思い浮かべるのは、おそらく赤い着物をお召しになられて、白髪を茶筅に結われている教祖のお姿なのではないでしょうか。
ところが、実際は、教祖が初めて赤衣をお召しになられたのは、立教から37年後の明治7年12月のことで、教祖が御年78才の時のことです。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』「35 赤衣」という逸話には次のようにあります。
 
 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、
「赤衣を着る。」
と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、教祖が、
「出来上がり次第に着る。」
と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方には出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お祝いの味醂を頂戴した、という。
  これ以降、教祖は約12年間、赤衣をお召しになられるのですが、実は、明治7年までの37年間は、黒い紋付の着物を着ておられたと伝えられています。
そして、この赤衣を召されるという出来事の前に、その準備段階ともとれる出来事がありました。


 教祖は、赤衣を召される約2年半前、明治5年6月の初め頃から8月の中旬まで、75日間の断食をなされます。さらに、その断食が終わった直後の9月から、別火別鍋というご指示をお出しになられるのです。
 まず、75日間の断食ですが、教祖は75日間、つまり約2か月半の間、穀類を断ち、火で炊いたものは一切召し上がらず、ただ水と少量の味醂と生野菜だけを召し上がってお過ごしになられました。

 逸話篇の中に、教祖が松尾市兵衛宅におたすけに出赴かれた時のエピソードがありますが、何とか教祖に御馳走を召し上がって頂きたいと考える松尾家の者達に対して、教祖は、「おまえらは、わしが勝手に食べんように思うけれど、そうやないで。食べられんのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ。」と、仰せられたので、こかん様が食べ物を箸でお口へ運ばせて頂くと、箸が跳んで行くように上へつり上がってしまって、召し上がって頂くことができなかったというエピソードです。これが、まさに75日間の断食中のお話です。

 そして、断食を終えられるとすぐに、別火別鍋というご指示をお出しになられます。
 別火別鍋というのは、教祖が召し上がられるものは、ご家族や他の者とは完全に区別して、別の鍋や別の調理器具で調理をし、その調理に使う竈の火さえも人間とは分けて、人間と教祖をはっきりと区別するように、というご指示をお出しになられたのです。
 おそらく、それまでは、ご家族と同じ食べ物を召し上がられていたのだと思います。しかし、この時より教祖は、親神様が入り込まれる「月日のやしろ」として、ハッキリと周囲の人々との立場を分けられたのだろうと思います。
 

 では、なぜ、このタイミングで、親神様は75日間の断食と、別火別鍋というご指示を出されたのでしょうか?
この約2年後の明治7年12月からご執筆になった「おふでさき」第6号に、
 
 このあかいきものをなんとをもている
 なかに月日がこもりいるそや (6号63)
 いまゝでも月日のまゝであるけれど
 ひがきたらんでみゆるしていた (6号64)
 このたびハもふぢうふんにひもきたり
 なにかよろづをまゝにするなり (6号65)
 
とあります。
 教祖がお召しになられる赤衣について仰っていて、この赤衣は、月日親神が入り込んでいるという、その理を表していると仰せられています。
そして、それまでも、教祖は「月日のやしろ」ではあったけれど、まだ時が満ちていなかったので、人間が慣れ合うのを見許してきた。
しかし、この度は、ついに十分に時が満ちたので、いよいよ教祖が赤衣を着て、本格的にたすけに踏み出す時がやってきたのだ、と仰せられているのだと思います。
 
 その上から、その準備段階として、「月日のやしろ」である教祖のお身体を、親神様が入り込まれる社として、より一層、相応しい状態とされるため、断食、そして別火別鍋とのご指示を出されたものと思います。
 さらに、同じく明治7年12月からご執筆になった「おふでさき」第6号には次のようにあります。
 
 いまゝでも月日のやしろしいかりと
 もろてあれどもいづみいたなり (6-59)
 このたびハたしかをもていあらハれて
 なにかよろつをみなゆてきかす (6-60)
 いままでハみすのうぢらにいたるから
 なによの事もみへてなけれど (6-61)
 このたびハあかいところいでたるから
 とのよな事もすぐにみゑるで (6-62)
 
とあります。要約しますと、これまでも、教祖を「月日のやしろ」として貰い受けてはあったけれど、垂れ下げた御簾の内側に隠れているが如く、親神が積極的に表へ出て働くようなことはあまりなかった。しかし、これからは積極的に表へ現れて出て、口に筆に指図をし、働きもするから、皆心して聞き取るようにせよ、というようことを御宣言なされたものと思います。
 「御簾のうぢら」とありますが、ちょうど大河ドラマなんかを見ておりますと、明治天皇以前の御門は、人とお会いになられる時、常に御簾を垂らして、決して人前に姿を晒すことはしなかったようですが、親神様も、教祖が赤衣を召されるまでは、昔の御門の様に、「月日のやしろ」の奥座敷にご鎮座坐しまして、御簾の内側から、教祖にあれこれとご指示をお出しになるだけで、直々に表に出て、直接的な働きはされて来なかった。しかし、断食、そして別火別鍋と、親神様が表へ出て働かれる準備も整い、いよいよ教祖が赤衣を召されたからには、御簾を巻き上げて表へ出られ、親神様が直々に働きに出られた、というようなことではないかと思います。
 これと符合するかのように、「おふでさき」第6号からは、親神様を表す言葉が、「神」から「月日」へと改められています。
 
 さらに教祖は、赤衣を召されると早速、動きに出られます。
 教祖が、はじめて赤衣を召されたその日に、突然、「一(いち)に、いきハ仲田、二(にい)に、煮たもの松尾、三に、さんざいてをどり辻、四(しい)に、しっくりかんろだいてをどり桝井」と仰せになって、側近の4名の者に身上だすけの「さづけの理」をお渡し下さったのです。
それまでも、「肥のさづけ」というものはありましたが、今日のような身上たすけのための「さづけの理」というものは無く、これがはじめてのことでした。
これについて、「おふでさき」第6号には、
 
 いまゝでハやまいとゆへばいしやくすり
 みなしんバいをしたるなれども      6号105
 これからハいたみなやみもてきものも
 いきてをどりでみなたすけるで      6号 106
  
と述べられており、これからは、この「息」や「てをどり」のさづけによって、どんな救けもしてやろうと、仰せられています。
赤衣を召して、教祖が「月日のやしろ」におわす理を明らかに現わされた上で、身上たすけのための「さづけの理」を、はじめてお渡しくだされたのです。
 教祖が赤衣を召された1年後の明治8年12月よりご執筆になった「おふでさき」第12号には、
 
 いまなるの月日のをもう事なるわ
 くちわにんけん心月日や      12号67
 しかときけくちハ月日がみなかりて
 心ハ月日みなかしている      12号68
 
と仰せられていますが、75日間の断食、別火別鍋、そして赤衣を召されて、おさづけの理をはじめて出されるという教祖の一連のご行動から、「教祖が赤衣を召される」という節目の重大さを感じずにはおれません。
まさに、この節目を、教祖の道すがらにおける重大なターニングポイントとして捉えることができるのではないか、そのように悟らせて頂きます。

 今月は以上です。ありがとうございました。

『芳洋』R185.12月号「風」より

 みなさん、こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか。
 去る10月26日、御本部秋季大祭にて、教祖140年祭に向かって全教の心を一つにするべく、真柱様より諭達第四号をご発布頂きました。
そして、この諭達は「この道にお引き寄せ頂く道の子一同が、教祖の年祭を成人の節目として、世界たすけの歩みを一手一つに力強く推し進め、御存命でお働き下さる教祖にご安心頂き、お喜び頂きたい」と結ばれています。
 おふでさきに、

 月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆえから (14号25)
 せかいにハこのしんぢつをしらんから みなどこまでもいつむはかりで (14号26)

とお示し頂きますが、いま世界は、親神様・教祖が望まれる陽気づくめとはかけ離れた、をやに心配ばかりをおかけしてしまうような、そんな世の有り様となってしまっています。
まずは、この道にお引き寄せ頂いた私たち道の子お互いが、この旬に、

 これからハ心しいかりいれかへて よふきづくめの心なるよふ (14号24)

とのをやの切なる親心を素直に聞き分けて、自らの心を澄まし、陽気な人をたすける心に切り替えるべく、教祖のひながたを手本に、心の成人を進めさせて頂きたいものです。
 

 そこで、教祖140年祭に向かう兵神大教会の年祭活動の方針を、教祖のひながたを手本に、〝明るい心〟で通りきろう」と定めさせて頂きます。

 教祖は、この世が親神様の思召通りの世に立ち替わるよう、御自ら通ってひながたの道をお残しくださり、人がたすかり、陽気ぐらしへ向かう道の歩み方を、私たちにお示しくださいました。
 50年に亘るひながたの道中、教祖はどんな難渋な中にあっても、常に明るく喜んで、たすけ一条の心でお通りになられました。
そして秀司様、こかん様をはじめお側の人々に対しては、形になって現れてくるさまざまな事柄を通して、その都度細やかなお心配りで、心の使い方や身の処し方、物事の受け止め方を教えられ、人々が次第に成人して神一条の心で道を通ることができるよう、皆を励まし、導き、お育てになられました。
 私たち人間は、日々の暮らしの中で悩んだり、迷ったり、苦しんだりする日がありますが、この教祖の陽気ぐらしのひながたがあるからこそ、未来に希望を抱き、明るく前を向いて、ふしを乗り越えていけるのだと思います。

 この教祖のひながたを道しるべに、どんな中にも「ひながたを手本に、明るい心で通らせてもらおう」と心に定めて通るところに、心の葛藤の中で思案や成人が進み、様々な気づきを得て、それまで感じられなかった有難さや結構さが味わえるようになってくると思います。
 「明るい心」こそ、教祖の第一のひながたです。
 そんな、お道の人らしい明るい心で、一日一日を通り切り、三年千日を通り切らせて頂くことができれば、教祖は、きっとご安心くださり、お喜びくださるに違いありません。
 
 そして、今回の年祭活動の実践目標は、「身上おたすけ」とさせて頂きます。
これを軸に、三年間努めさせて頂きたいと思います。
 今回の「身上おたすけ」という取り組みは、一人の方の身上のたすかりを願って、おさづけの取り次ぎ、お話の取り次ぎ、お願いづとめ、理づくり、おぢばがえりと誠真実を尽くして動く中に、自分とおたすけ相手が、親神様・教祖の何らかのお働きを目の当たりにさせて頂く、というのが主眼です。ですから、必ずしも身上が完全に平癒することばかりを目指すものではありません。
 
 教祖が「在るといえばある、無いといえばない。願う心の誠から見える利益が神の姿やで」とお聞かせくだされたと伝えられますが、親神様も教祖も、私たちが目にすることのできるお姿はお持ちになっておられませんので、いくら私たちがそのお姿を拝したくとも、拝することは適いません。
しかし、私たちが誠真実の心を尽くして願えば、親神様・教祖がその心を受け取って何らかのお働きを見せてくださいます。
そのお働きの姿こそが親神様、教祖のご存在の痕跡であり、ご存在の証なのです。
 このお言葉のように、私たちは誠を尽くして願うことによって、親神様・教祖のお働きをお見せ頂けるからこそ、そのご存在を信じることができるのだと思います。
この旬に、一人でも多くの人が、親神様・教祖のお働きを目の当たりにすることができれば、お道は本来の輝きを取り戻すに違いありません。
 
 もう一つの実践目標は「人だすけ」です。
 これは「事情だすけ」という意味ではありません。
ここで言う「人だすけ」とは、とにかく身の回りで困っている人や悩む人があれば、その人のたすかりのために自分の時間を使って奔走することを目指します。寄り添うことや付き添うことも「人だすけ」です。
 人のために自分の時間を割くということは、簡単そうですが、実は意外と難しいことだと感じます。だからこそ、その人のたすかりのために差し出した時間は、親神様・教祖が誠真実としてお受け取りくださるに違いないと考えます。
 人のために自分の時間を使うことが、自分にとっての年祭活動であり、ご恩報じなんだと心を定めて通るところにこそ、相手に本当にたすかってもらうことができるのだと思います。
 
 こうした方針の下、私を含む兵神につながる一人ひとりのようぼく信者が、勇んで年祭活動に取り組み、教祖の年祭を意義あらしめたいと存じます。
三年間、何卒よろしくお願いいたします。

『芳洋』R185.11月号「風」より

 みなさん、こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。だんだんと秋らしい気候となり、世の中にも活気が戻ってきたように感じます。
 今月26日には、ご本部で秋季大祭がつとめられ、いよいよ諭達第四号をご発布いただきます。私たちも元気を出して、よい年祭活動のスタートが切れるよう、今から心の準備に掛からせていただきたいと思います。
 
 その上で、兵神大教会では、来る11月23日、御本部より表統領・中田善亮先生をお迎えして、諭達巡教を受けさせていただくこととなりました。当日は、併せて教会長夫妻特別集会を開催させていただく運びとなっておりますので、誠に申し訳ありませんが、収容人数の関係から、11月の大教会月次祭の参拝は受講対象者に限らせていただきます。
 まずは、各教会の芯となる教会長夫妻が、直接おぢばの理を受けさせていただき、先頭に立って年祭活動に臨んでいただきたいと思います。その後、来年1月より順次諭達一斉巡教を行わせていただきますので、ご承知おきくださいますよう、よろしくお願いいたします。

 
 さて、話は変わりますが、先月号では、教祖が貧のどん底を歩まれる中にも、不思議なおたすけを次々と現わされていかれたことについて書かせていただきました。
 そして、教祖にたすけられた人々は、次第に教祖を「生き神様」だと信じるようになり、教祖から教えを聞かせていただき、その教えを実行するようになっていきました。
 

〈つとめ場所の普請〉
 立教から25年ほどの時が経ち、文久、元治の頃には、すでに「庄屋敷村の生き神様」の噂を聞きつけて、近村は言うに及ばず遠方からも、多くの人々が訪ね来るようになっていました。
 この頃、のちの本席・飯降伊蔵様が初めて参詣なされました。また、伊蔵様に先立って、辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七、山澤良治郎といった、後に教祖の側近となられる先生方が次々と入信されています。
伊蔵様は、妻のおさと様の病を救けていただいた御礼にと、お社の献納を申し出られます。すると教祖は、「社はいらぬ。小さいものでも建てかけ」と仰せられ、「どれ程の大きさのものを、建てさして頂きましようか」と伺いますと、「一坪四方のもの建てるのやで、一坪四方のもの建家ではない」、「つぎ足しは心次第」とのお言葉がありました。
この時、居合わせた人々が相談の上、3間半に6間のものを建てさせていただこうと心を定め、つとめ場所の普請がはじまったのです。
 途中、「大和神社のふし」によって普請は困難を極めますが、飯降伊蔵様ご夫妻の尽くした誠真実と、人々が再びおやしきへ戻ってきたことにより、翌年の慶応元年にようやくつとめ場所が完成しました。
教祖は、新しい上段の間の神床に親神様を祀り、同じ間の西寄りに壇を置いて、終日、東向いて端坐なされ、寄り来る人々に、諄々と親神様の思召をお伝えになられたということです。
 

〈おつとめ〉
 慶応元年につとめ場所が完成すると、いよいよおつとめが教え出されます。おつとめは、慶応2年秋に、「あしきはらひたすけたまへ てんりわうのみこと」とのおつとめの歌と手振りが教えられ、慶応3年の正月から8月にかけて、十二下りの歌がつけられました。そして、そこから3年かけて十二下りの手振りが教えられるのです。この時の様子が『稿本天理教逸話篇』「18 理の歌」に記されています。
 
  十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、
「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、
 「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、
「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、それをごらんになっていたが、
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
  こうして、節も手振りも、一応皆の者にやらせてみた上、御みずから手本を示して、お教え下されたのである。
  
というような具合で、おつとめが教え出されたということです。ここから分かることは、おつとめの歌も、その節も、そして手振りも、どれ一つ人間が考えたものはなく、すべて教祖が御自らお教えくださったもので、すなわち、それは親神様の御教えであり、あるいは「理」そのものであるということを分からせていただけます。
さらに、3年かけて十二下りの手振りが教え出されたということですが、その時の様子は、「19 子供が羽根を」のお話に記されています。
 
「みかぐらうたのうち、てをどりの歌は、慶応三年正月にはじまり、同八月に到る八ヵ月の間に、神様が刻限々々に、お教え下されたものです。これが、世界へ一番最初はじめ出したのであります。お手振りは、満三年かかりました。教祖は、三度まで教えて下さるので、六人のうち三人立つ、三人は見てる。教祖は、お手振りして教えて下されました。そうして、こちらが違うても、言うて下さりません。
 『恥かかすようなものや。』
と、仰っしゃったそうです。そうして、三度ずつお教え下されまして、三年かかりました。教祖は、
 『正月、一つや、二つやと、子供が羽根をつくようなものや。』
と、言うて、お教え下されました。」
  これは、梅谷四郎兵衞が、先輩者に聞かせてもらった話である。
 
とありますように、「みかぐらうた」というものは、神様が刻限々々にお教えくだされたものなのです。そして、慶応3年の秋頃から満3年かかってお手振りが教えられたということは、明治2年の秋頃までかかったということでしょうか。先生方の「一手たりも見落とすまい」という真剣な態度が伝わってきます。
 さらに、明治3年に「ちょとはなし」と「よろづよ八首」のおつとめの歌と手振りが教えられ、明治6年には、飯降伊蔵様によって「かんろだい」の雛型が制作されます。また、明治7年の6月、かねてから教祖の実兄である前川杏介氏に制作を依頼していた神楽面を、御自ら前川家に迎えに行かれました。
 そして、教祖がはじめて赤衣を召されてから約半年後の明治8年陰暦5月26日、「ぢば定め」が行われ、かぐらづとめが勤められるべき、元なる「ぢば」の地点が明かされることとなるのです。また、この年には「いちれつすますかんろだい」の歌と手振りが教えられ、これにより、おつとめの手が、はじめて一通り整いました。さらに教祖は、「雨乞い」や「をびや」、「はえで」といった11通りのおつとめも教えられ、いよいよおつとめが完成間近となりました。

 明治10年からは、女鳴り物が教え出され、教祖は4人の子供たちに御自ら理をお仕込みくださり、こうして、明治13年の頃にはおつとめもほぼ完成し、いよいよ親神様・教祖は、人々につとめの実行をお急き込みになられます。
 ところが、官憲の度重なる干渉・弾圧ゆえに、秀司様をはじめ、おやしきの人々は、おつとめの実行を躊躇なされます。そんな人々に向かって、親神様は、
「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」
と、刻限を以て厳しくお急き込みになられたのでした。
このお仕込みにより、明治13年陰暦8月26日には、はじめて三曲をも含む鳴物を揃えて、よふきづとめが行われます。しかし、その一方で、家長である秀司様は官憲の度重なる干渉・弾圧に頭を悩ませ、親神様・教祖の反対を押し切って応法の道を選ばれるのでした。
 

〈おふでさきご執筆〉
 教祖は、明治2年から15年にかけて『筆、筆、筆をとれ』との親神様のご指示のままに「おふでさき」を御執筆されました。この「おふでさき」には、教えの全容が述べられていますが、特に、つとめの完成が最大の眼目となっています。
 さらに、親神様が人間の元の親であるという、この世と人間の元はじまりの真実を説き明かされました。これは現在では「元の理」と呼ばれていますが、このお話の中で、人間は、いつ、どこで、誰によって、何のために、どのように生み出されたのかについて、初めて説き明かされたのです。
 
 以上が、教祖によって、おつとめが教え出された道すがらです。ちなみに、このおつとめが教え出される以前には、「なむ天理王命」とひたすら神名を唱えて願う方法が教えられていたようです。
 文久3年3月、辻忠作先生が、妹くらさんの気の間違いからはじめておやしきに参詣すると、教祖から、家に帰って朝夕拍子木をたたいて、「なむ天理王命、なむ天理王命」と、ひたすら繰り返し/\唱えて願う方法を教えられたようです。また、元治元年、つとめ場所普請の棟上げを終えた人々が、大和神社の前で拝した時も、拍子木、太鼓などの鳴物を力一杯打ち鳴らしながら、「なむ天理王命、なむ天理王命」と、繰り返し/\声高らかに唱えつづけたといいます。
 
 教祖は、常に目の前で難儀する子供を放ってはおけない、たすけてやりたい、喜ばさずには帰されん、そんな母親のような温かい親心を以て、どんな相手にも分け隔てなくお接しくださり、病む人の痛む場所には御息をかけ、擦っておたすけくださいました。また、御供を与え、「なむ天理王命」と神名を唱えて願う方法をお教えくだされました。
 このような教祖のおたすけがあれば、それで十分だと、当時の人々は考えたかもしれませんが、たとえば当時、多くの人々を苦しめていたであろう貧困、差別、戦争といった諸問題は個人の問題ではなく、社会制度や思想が主な原因であったりします。ですから、そのような世の不条理を正し、その犠牲となって苦しんでいる人々を救うためには、世界一れつの心の立て替えが必要なのです。だからこそ親神様は、世界一れつの子供をたすけるために、おつとめの完成を急き込まれたのだと思います。

 そして、現在も当時と同じように、教祖はおさづけの理によって、また御供によって、あるいは、お願いづとめによって、存命の理を以て私たちをおたすけくださっています。しかしながら、今もってなお、戦争や貧困、差別といった不条理はなくなりません。このような世の不条理を正し、陽気ぐらしの世を実現させるためには、やはり親神様、教祖が直々にお付けくださった、このつとめの道をおいて他にないのだと思います。

今月は、ここまでです。お読みいただき、誠にありがとうございました。

『芳洋』R185.10月号「風」より

 みなさん、こんにちは。新型コロナウイルスの第7波が猛威を振るいましたが、ようやく少し落ち着いてきたように感じます。今回は身近な方々が次々と罹患され、高熱やその対応に大変ご苦労なされたと聞きました。心よりお見舞い申し上げると共に、一日も早いご快復をお祈り申し上げます。
 まず最初に、ご報告をさせて頂きたいと思います。私は、これまで布教部庶務課の基礎講座事務局長として務めさせて頂いてまいりましたが、この度9月25日付けで、本部学生担当委員会の委員長を拝命することとなりました。個人的には、次々と重たい御用をお任せ頂き、身の引き締まる思いでおりますが、兵神の皆さまには、引き続きご不自由やご迷惑をお掛けすることになると思います。しかしながら、これも兵神の年祭活動の大きな理づくりに繋がっていくと思いますので、皆さまには、何卒ご理解とご協力の程をよろしくお願いいたします。

 
 さて、先月は、教祖の魂のいんねんについて書かせて頂きました。簡単におさらいをいたしますと、「おふでさき」に、

  このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり  六 55
  月日よりそれをみすましあまくだり  なにかよろづをしらしたいから  六 56
 
とお示し頂くように、親神様は、元はじまりの時の母親なる「いざなみのみこと」の魂の御方・中山みき様の他に比類ない慈悲の御心を見定められて、「月日のやしろ」と定めになられました。
 そして、「月日のやしろ」と定まられた教祖の御心は、月日親神様の御心。すなわち、世界一れつの子供を余さずたすけたい親神様の親心であります。また同時に、目の前で難儀する子供を放ってはおけない、たすけてやりたい、喜ばさずには帰されん、そんな元はじまりの母親「いざなみのみこと」の子供たすけたい一条の親心、そんな母親のような温かい親心を以て、教祖はどんな相手にも分け隔てなくお接しくださり、大きな親心で人々をお導きくださったのです。
まさに教祖こそ、地上の月日であり、私たち人間の「真実の親」なのです。
 

 そして、ここからは、「月日のやしろ」として歩まれた教祖の50年の道すがらを振り返り、親神様の世界一れつの子供を余さずたすけたいというたすけ一条の御心のまにまにお通りくだされた、教祖の真実の親なればこその親心溢れるひながたについて学んでいきたいと思います。
 
〈貧に落ち切れ〉
 月日のやしろとなられた教祖は、まず「貧に落ち切れ」との親神様の思召のまにまに、嫁入りの時の荷物をはじめ、食物、着物、金銭に到るまで、次々と難儀する人々に施していかれました。
 当時の年貢の納入などは隣近所との連帯責任となっていたそうですので、きっと周囲の反対や批判は少なくなかったことと思います。しかし、その一方で、近在の貧しい人々は教祖のお慈悲に浴しようと、どんどんと慕い寄ってきます。すると教祖は「この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。」と、子供可愛い一条の思召から、ますます施しを続けられましたので、遂にはどの倉もこの倉もすっきりと空になってしまったそうです。
さらには、中山家の田地さえも売り払って施しを続けられる中、嘉永6年2月22日、教祖の最大の理解者であった夫・善兵衞様が、66歳を一期としてお出直しになられました。 
 
〈母屋の取毀ち〉
 善兵衞様が出直されると、予てより親神様が「家形を取り払え」と仰せられていたように、中山家の母屋がいよいよ取り壊されることとなります。母屋取毀ちの時、教祖は、「これから、世界のふしんに掛かる。祝うて下され。」と仰せられたと伝えられています。
この中山家の母屋の下には、のちに明かされる「ぢば」の地点があったのです。
 
〈貧のどん底〉
 その後、教祖とご家族様は、ますます貧のどん底へと進まれます。
 貧に落ち切られると、朝は早くから農事に精を出され、夜になっても灯す油に事欠く状況の中、月の光を頼りに親子3人で糸を紡がれましたが、教祖は「お月様がこんなに明るくお照らし下されてある」と、貧しい生活の中でも、親神様の御守護である自然の恵みを讃えられ、常に明るい喜びの心でお通りになられました。
 教祖をはじめご家族は、蚊帳もなく夏はひどいやぶ蚊に悩まされ、冬は冬とて枯葉や小枝をくべて暖をとりながら、おそくまで夜なべに精を出されたということです。また、お道の人なら誰もがよく知るお話ですが、ある日、娘のこかん様が「お母さん、もうお米はありません」と申し上げると、「世界には、枕元に食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて苦しんでいる人もある。その事を思えば、わしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある。」また、「どれ位つまらんとても、つまらんと言うな。・・・」と諭され、足らない事を嘆くよりも、お与え頂くご守護の有難さに目を向ければ、次々と喜びに気付くことができる。ここに至れば、喜びは泉のように湧いてくるという、どんな中にも前を向き、明るい心で通る陽気ぐらしのひながたをお示しくださいました。
 さらにまた、そんな不自由極まりない生活の中にも、ようやく手に入れた米でさえ、たまたま門口に立って物を乞う者があれば、何の惜しげもなく与えられ、寒さに震えている者には、着ている半纏さえ脱いで与えられたということです。
 このように、教祖は常に、目の前で難儀する子供を放ってはおけない、たすけてやりたい、喜ばさずには帰されん、そんな母親のような温かい親心を以て隔てなくお接しくださり、おたすけくださいました。
 
 このように教祖とご家族の皆さまは、十数年に亘って貧のどん底をお通り下さいましたが、それは一体何のためだったのでしょうか?
 まず、第一には、どんな不自由な生活の中でも、欲を離れて、お与え頂く親神様のご守護の有難さに目を向ければ、次々と喜びに気付くことができるという陽気ぐらしのひながたをお示しくださるためだったと言われています。

 私は、もう一つ大事な意味があるのではないかと考えています。
それは、「みかぐらうた」の七下りに、「やしきは神のでんぢやで まいたる種はみな生える」とありますが、この神の田地がその理由だと思うのです。
詳しく説明しますと、元々、取り壊された中山家の母屋は、「ぢば」の地点を覆い隠すような位置に建てられておりました。たすけ一条の「おつとめ」を完成させるためには、その前提として、つとめの中心となる「ぢば」の地点を明らかにし、かんろだいを建設しなければならない。そのためには、その上に立っている建物は何としても取り除かなければならない、という必然性がありました。

 また、中山家の屋敷ですが、いくら人間宿し込みのいんねんある屋敷であるとはいえ、長年、人間が普通に生活を営んで、心の埃にまみれた屋敷です。
そのままでは、荒れた田地と同じように小石や木の根、芥の混じった、神の田地には相応しくない場所であったことだろうと推測いたします。
それを「みかぐらうた」の7下り目で、「やしきは神のでんぢやで まいたる種はみな生える」「種を蒔いたるそのかたは、肥を置かずに作り取り」と仰せられるように、救けを求めて訪れた人々が、次々とたすかってゆく「神のでんぢ」に仕立て直すためには、それなりの時間と丹精が必要だったのではないでしょうか。
 そこで、教祖とご家族の理の伏せ込みが必要だったのだろう、というのが私の考えです。
あくまでも私の悟りに過ぎませんが、魂の御いんねんから言ってもご苦労の必要のない、月日のやしろ・教祖が、これほどの長い期間、我々でも通り切れないようなご苦労のご道中をお通りにならなければならなかった理由が他にあるでしょうか?
 そのお伏せ込みの理のお蔭によって、私たちが元のやしきへ足を運び、真心を尽くして、神の田地に真実の種を蒔きに来るならば、親神様は、その心の誠を受け取って、心次第にたすけてやろうと仰せくださるのです。
 たとえば、桝井伊三郎という先生が、子供の頃に母親のたすかりを願って教祖に何度もお願いに行くお話は有名ですが、教祖は「残念やが、たすからん」と仰って2度までも帰されています。それでも、「どうでも」と足を運んだ3度目に、「その真実を受け取った」と仰って母親をおたすけくださるのです。
これが、まさに教祖とご家族が理を伏せ込まれた「神の田地」の効能の理なのだろうと思います。
 母屋の取り壊しに際して教祖は、「これから、世界のふしんに掛る。祝うてくだされ」と仰せられたそうですが、こうして、親神様と教祖は、世界たすけのための準備として、まずやしきの掃除と理の伏せ込みをしてくださったのだ、私はそのように考えています。

 
〈をびや許しと不思議なたすけ〉
 そして、教祖はこのような貧のどん底を歩まれる中にも、不思議なおたすけを次々と現わされていきました。
 まず、善兵衛様お出直しの2年後の安政2年、三女・おはる様に、はじめて「をびや許し」をなされました。折悪しく大地震が発生する状況の中、無事に安産されるという御守護をいただかれます。この評判が道明けとなって、「大和の庄屋敷村に安産の神様が出られた」という噂が広がり、多くの妊婦が安産を願いに訪れるようになりました。

 さらに、教祖は「をびや許し」だけではなく、目が見えない人が見えるようになったり、立つことが出来なかった人が歩けるようになったり、もう命が無いという人が息を吹き返したりと、医者が匙を投げるような難しい病さえも次々とたすけていかれました。
この不思議なおたすけの評判を聞いて、遠い所からでも教祖の元へと次々と人が訪ね来るようになりました。

 助けられた人々は、教祖を「生き神様」だと信じるようになり、そして教祖から教えを聞かせて頂き、その教えを実行するようになっていきました。
このように、最初は「安産の神様」として噂が広がっていきましたが、次第に「をびや許し」以外のおたすけを願う者も出て来て、それがどんどんとたすかっていくものですから、「大和の庄屋敷村の安産の神様」という評判が、次第に「大和の庄屋敷村に生き神様がおられる」という評判に変わっていったのです。

 今月は、ここまでです。最後までお読み頂き、ありがとうございました。
 
 最後に、教祖の「人をたすけたい」「満足を与えてやりたい」という真心は明るい心。また、親神様の与えやお働きに感謝し、喜ばれる御心も明るい。教祖の御心は、常に明るい。そんな教祖の明るい御心を我が心のひながたとして通らせて頂きたい、そう考える今日この頃です。

『芳洋』R185.9月号「風」より

 突然ですが、現在のお道では、本部や教会で教祖のお話に触れる機会が少なく、教祖がだんだんと遠い存在になってきてしまっているように感じます。しかしながら、この道の信仰は、教祖の御教えやひながたがなければ成立はしませんし、教祖に対する思慕とご恩報じの念こそが信仰の原動力となるはずです。
言うまでもなく教祖は、ただの歴史上の人物ではなく、今もご存命で元のやしきにお留まりくださり、おはたらきくださる「真実の親」なるご存在なのです。

 そこで、教祖140年祭の年祭活動のスタートを目前に控えた今、共に教祖について学び、共に理解を深めさせていただきたいと思います。
まず今月は、教祖の魂のいんねんについて書かせていただきたいと思います。
 
 「おふでさき」に、
 せかいぢう神のたあにハみなわがこ 一れつハみなをやとをもゑよ (四ー79)
とあります。「たあ」というのは大和地方の方言で「○○にとって」という意味で、「世界中の人間は、神にとっては、みな可愛い我が子である。だから、世界一れつの人間はみな、この親神を親と思うようにせよ。」と仰せられています。「おふでさき」の語り手は親神様ご自身ですので、つまり、神様の方から「あなた達は、私にとって可愛い我が子なのだから、私のことを親と思いなさい」と仰せくださっているのです。

 また、『稿本天理教教祖伝逸話篇』「104 信心はな」の逸話で教祖は、「神さんの信心はな、『神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。』そしたら、ほんまの信心が出来ますで」と仰せられています。教祖も、やはり「神様のことを親と思いなさいよ」と仰せくださっています。
 教祖が「ほんまの信心が出来ますで」と仰せられるように、この天理教の信仰は、まず親神様を「親」と捉えるところに教えの核心があるのです。ただし、親と子と言っても、今どきのフレンドリーな親子関係とは異なり、少し昔の敬意をこめて両親を「お父さま」「お母さま」と呼んでいたような親子関係をイメージしてもらいたいと思います。
 

 では、なぜ人間にとって、親神様が「親」と言えるのでしょうか? その前提として、お道では、この世と人間は紋型ない泥海中より親神様によって創められたと教えられています。
 それでは、どのようにして人間はつくられたのでしょうか? 否、つくられたのではありません。生み出されたのです。親神様が、人間を生み出すに当たって、一番最初にしてくださったことは、「人間の父親、母親」の役割を果たす「夫婦の雛形」という一組のカップルをお定めになられることでした。
 
 この「夫婦の雛型」のうち、父親を「いざなぎのみこと」、母親を「いざなみのみこと」と申し上げます。そして、月日・親神様の御心が、父親なる「いざなぎのみこと」、母親なる「いざなみのみこと」へ、それぞれ入り込まれて、人間創造の守護を直々に教えられ、そして、母親のお腹の中に、九億九万九千九百九十九人という数の子数が宿し込まれ、その子数を宿し込んだまま、その場所に三年三月もの間、留まられたのです。今でいえば「十月十日」と言いますが、最初に宿し込まれた人間は、母親なる「いざなみのみこと」のお腹に宿し込まれ、母親のお腹の中で、三年三月もの間、大事に大事に守り育てられて、やがて生み出していただいたのです。
 
 その最初に人間が、母親なる「いざなみのみこと」の胎内に宿し込まれ、三年三月もの間、守り育てて頂いた場所の中心が、現在の教会本部の神殿中央にある「かんろだい」が据えられている場所「ぢば」の地点です。だからこそ、その「おぢば」は、私たち全ての人間にとっての「ふるさと」だと教えられているのです。
 
 私たち人間は、神様によって生み出されたと言っても、今の私達と同じ様に、まず父親・母親の役割を果たす神様がいて、わざわざ、その母親なる「いざなみのみこと」の胎内に宿しこみ、生み出していただきました。まさに、「腹を痛めて、生んだ我が子」です。
ゆえに、月日・親神様、そして、父親なる「いざなぎのみこと」・母親なる「いざなみのみこと」こそが、人間の元はじまりの親だと言えるのです。
 そして、その後も、我が子である人間が、不自由なく暮らせるように、陽気ぐらしができるようにと、親神様は火・水・風の働きをはじめ様々な恵みを与え、環境を整え、智恵や文字さえも授けて、今日に至るまで私たちを守り、お育てくださっているのです。さらに、世界一れつの子供をたすけるために、教祖をやしろとしてこの世の表に直々にお現われくださり、たすけ一条の道をお付けくださったのです。
 親神様は、紋型ない泥海の中から人間を生み出してくださり、育て、守り、お救いくださるご存在であり、さらに、ご自分の方から「親と思え」と仰ってくださる、まさに、人間の「真実の親」なるご存在なのです。
 

 のちに教祖となられる中山みき様は、元はじまりにおいて人間を宿し込み、生み出してくださった母親なる「いざなみのみこと」様の魂のいんねんある御方であると教えられています。親神様は元の約束に従って、「いざなみのみこと」の魂の御方を三昧田村の前川家に生れさせ、その後、「いざなぎのみこと」の魂の御方・中山善兵衛様に嫁がせて、元のやしきに連れ帰られたのです。これにより、元はじまりの最初の「夫婦の雛型」である「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」は、再びこの世でご夫婦となられたのです。
 
 中山家に嫁がれたみき様は、その魂のいんねんゆえなのか、比類なきご慈悲をお持ちの御方であり、目の前で難儀する者を決して放ってはおけないような大きな慈愛に満ちた人柄であったということです。
 『稿本天理教教祖伝』の記述から、みき様は、どんな相手に対しても分け隔てなく、常に厚い慈悲の御心でお接しになられたことが分かります。
或る時、米倉を破って米を運び出そうとする者がありました。みき様は、「貧に迫っての事であろう。その心が可愛想や」と、かえって労わりの言葉を掛けた上、米を与えてこれを容されたということです。
 或る秋の収穫時に、中山家で作男を雇われましたが、その内の一人が大層な怠け者でした。しかし、みき様は見捨てることなく、いつも、「御苦労さん」と優しい言葉をかけて根気よく導かれたということです。
 また、或る秋の末のこと、一人の女乞食が垢に塗れた乳呑児を背負い、門口に立って憐みを乞うた時のこと。みき様はすぐに粥を温めて与え、着物までも恵まれた上、「親には志をしたが、背中の子供には何もやらなんだ。さぞ腹を空かして居るであろう。」といってその児を抱き取って、自分の乳房を含ませられたということです。
 さらに、みき様は出産の度毎にお乳が十分にあったので、毎度、乳不足の子供に乳を与えられたそうです。三十一歳の頃、近所の家で子供を五人も亡くした上、六人目の男の児も、乳不足で育てかねているのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話しておられたところ、計らずもこの預り子が疱瘡にかかり、一心こめての看病にも拘らず、十一日目には黒疱瘡となってしまいました。医者は「とても救からん」と匙を投げましたが、みき様は「我が世話中に死なせては、何とも申し訳ない」と、氏神様に百日の裸足参りをされ、さらに、あらゆる手立てを尽くされます。しかし、万策尽きた挙句、天に向かい八百万の神々に「無理な願いではございますが、預かり子の疱瘡難しいところ、御助け下さいませ。その代わりに、男子一名を残し娘二人の命を差し上げます。それでも不足でありますならば、願満ちたその上は私の命をも差し上げます。」と、ご自分と娘の命と引き換えにして、預かり子のたすけを願われたのです。
まだこの時、親神様の御存在を知る者は、みき様を含め誰一人としてありませんでした。ゆえに、いくら「いざなみのみこと」の尊い魂をお持ちのみき様とはいえ、只々神仏にすがるしか方法がなかったのです。「我が子や自身の命と引き換えに」と言って願ったわけですから、それこそ自分に出来ることは全てなさったことでしょう。
 そんな、みき様の必死の願いが天に通じて、預かり子は、その後、日一日と快方に向かい、やがて全快するに至ります。しかし、その後、みき様の2人の娘様は、幼くして迎え取となってしまいました。こうして、みき様は、約束通り自らの娘2人の命と引き換えに、預かり子のおたすけをなされたのです。
 みき様は、人類の母親なる「いざなみのみこと」の魂のいんねんある御方。きっと、目の前で苦しむ者を見て、見過ごすことはできなかったのでしょう。もちろん、他人の子のために、我が子の命を捧げたなどということは、夫はもとより誰にも打ち明けることはできなかったことだろうと思います。みき様は、お一人でどれほど苦しまれたことでしょう。しかも、「願満ちたその上は私の命をも差し上げます」とまで約束をなされているのですから、ご自分さえも、いつ迎え取りとなるのか分からない状況です。この当時、中山家の跡取り息子・秀司様は、まだ八歳。この中山家の跡取りも立派に育て上げなければならないし、生れたばかりの子供もいます。いったい、いつまで我が子たちの成長を見届けることができるのだろうか? そんな思いで、日々をお過ごしになられていたことだろうと思います。
 これが、のちに「おやさま」となられる中山みきという御方の御心です。このように、のちに天理教の教祖となられる中山みき様は、生来人並外れた深い慈しみの心と誠の心を持ち主であられました。
 
 「おふでさき」に、
 このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり  (六ー55)
 月日よりそれをみすましあまくだり  なにかよろづをしらしたいから  (六ー56)
 
とありますが、親神様は、元はじまりの時の母親なる「いざなみのみこと」の魂の御方・中山みき様の、こうした他に類を見ない程の深い慈悲の御心を見定められて、「月日のやしろ」と定められたのです。
 
 「月日のやしろ」と定まられた教祖の御心は、月日・親神様の御心。すなわち、世界一れつの子供を余さずたすけたい親神様の親心であります。また、それと同時に、目の前で難儀する子供を放ってはおけない、たすけてやりたい、喜ばさずには帰されん、そんな元はじまりの母親「いざなみのみこと」の子供たすけたい一条の親心の両面をお持ちになられていたのだろうと思います。
まさに教祖こそ、地上の月日であり、私たち人間の「真実の親」なのです。

『芳洋』R185.8月号「風」より

 皆さま、こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか。残念ながら、新型コロナウイルス感染の第7波がやってきてしまいました。これまで以上に感染力の強い変異ウイルスが猛威を振るっているということですから、あたらめて基本的な感染対策を心掛けて、乗り越えてまいりたいと思います。
 
 さて、私は現在、本部の布教部庶務課で御用をさせていただいておりますが、特に基礎講座の事務局長として「天理教基礎講座」の担当をさせていただいています。
その基礎講座について、『みちのとも』8月号で、特集を組んでいただくことになりましたので、ぜひ皆さんにもご覧いただきたいと思います。
これまでに基礎講座をご利用くださった方も少なくないと思いますが、「天理教基礎講座」は、陽気ホールのある「おやさとやかた南右第二棟」を会場に毎日開催しています。
 
 基礎講座の内容は、ビデオと講話で構成されています。
 最初のビデオⅠ(約15分)は、おぢばを紹介しながら、基本的な教語の説明する内容となっています。そのビデオを受けて、講師から「かしもの・かりもの」の教えを中心とした、教えの基礎的な部分についてお話をします。
 さらに、ビデオⅡ(約10分)では、「信仰のよろこび」をテーマとした実際の信仰者のドキュメントをご覧いただきます。最後に、講師が自らの体験談を交えながら、このお道の信仰や陽気ぐらしについて、分かりやすくお話をしてくれます。

 どの講師も、それぞれの実体験から得た気づきや感激を、分かりやすくお話しくださっていますので、同じ内容の講座ですが、受講していただくたびに、新たな気づきや学びが得られるように思います。未信仰の方はもちろん、ようぼくや教人といった立場の方でも、信仰的に少し足踏みをされてるような方、あるいは、もう一歩前へ進んでもらいたいと思うような方には、ぜひ一度、基礎講座をご利用いただきたいと思います。
それまで抱えていたモヤモヤや疑問が、講師のお話を通して晴れることもあると思います。また、心の向きを切り替えるきっかけになるかもしれません。
 現在の天理教で、このようなお道のお話や信仰の話を聞ける場所はあまり多くありません。ぜひ教会の団参やご家族でのおぢばがえりの際に、この「天理教基礎講座」をご活用いただきたいと思います。
 
【受講対象】  15歳以上ならどなたでも受講できます。
【受講御供】  500円
【会 場 】  おやさとやかた南右第二棟(受付は1階ホール)
【開催時間】  平日(月~金)は午後の部のみ(午後1時30分~3時)
        土・日・祝日は午前の部(午前9時30分~11時)
               午後の部((午後1時30分~3時)
※毎月25日と27日は、午前・午後開催、26日は午後のみ
【受 付  】  講座開始30分前より講座開始まで(遅れる場合はご連絡ください)
【問い合わせ】 基礎講座事務局 (0743-63-1959)
ホームページ https://www.tenrikyo.or.jp/kiso/oyasato/
 
なお、平日(月~金)は完全予約制となっています。受講される方は、前日の正午までにご予約ください。(基礎講座事務局 0743-63-1959)

『芳洋』R185.7月号「風」より

 皆さま、こんにちは。新型コロナウイルスも事情も、少し落ち着いた状況となってきました。もちろん、まだまだ油断はできませんが、おぢばがえりや教会の行事も少しずつ再開していきたいと思います。
 
 さて今年は、大教会の祭典講話を「おやさま」という統一したテーマで行うよう先生方にお願いし、年祭活動に向けた取り組みとして行っています。ご部内の教会でも同様に取り組んでくださっている教会があると聞いています。本当にうれしいことです。
 私は、「おやさま」について学ぶならば、『稿本天理教教祖伝逸話篇』を台にして学ぶのがよいと考えていますが、教祖の御教えは実に奥が深いので、ちょっと読んだだけでは分からないことが少なくないように感じます。
 
 何年か前、学生生徒修養会・高校の部で、女子宿舎の副寮長を務めさせてもらったことがあります。副寮長の役割は、寮運営がスムーズに進むよう寮長の補佐をしたり、スタッフの様子に気を配ることが主な役割です。
 女子寮ですから、やはり、そこは女の世界です。いろいろと気を遣いながら、細やかな心配りを心掛けて務めさせてもらっていたのですが、時々、声をかけてみても挨拶をしても、そっけない態度で物憂げに通り過ぎていくスタッフがいます。
 気になって、話しかけてみても「いや、別に、大丈夫です」とそっけなく、明らかに大丈夫じゃなさそうな様子で、逃げるように立ち去っていきます。
私は訳が分からず、「オレ、なんか悪いことしたかなぁ?」とリーダー役の女子スタッフに聞いてみますと、「あぁ先生、彼女、女の子の日なんです」と、そっと教えてくれました。翌日になると、彼女は嘘のようにケロッとして、再び笑顔で挨拶をしてくれるようになりました。
 
 その時ふと、逸話篇の「112 一に愛想」というお話を思い出しました。

 教祖は、飯降伊蔵様の長女・よしゑさんに対して、「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと言うて、明るい返事をするのが、第一やで。」とお仕込みくださったということですが、このお話は、ややもすると世間で言うような「女は愛嬌!」と同じように受け取られてしまいがちだと思います。しかし、私はこの時、「あぁ、教祖はこのことを仰っているのだな」と感じました。
 このお話の主人公である飯降よしゑさんは、12歳の頃から3年間、教祖の下へ通って、教祖から直々に女鳴り物をお教え頂いた方ですから、このお話も、おそらく10代の娘時代のよしゑさんに対してお仕込みくださったお話だと思います。
 
 女性は、その女性特有の役割がゆえに男性に比べて体調の変化が繊細で、それで苦労することも多く、思わず表情が険しくなってしまう日が多いように思います。けれども、女性があんまり暗く険しい顔ばかりをしてしまいますと、かつての私のように理由も分からず顔色を窺うばかりで、家庭なら夫や子供も何だか悲しい気持ちになって、ギスギスした雰囲気の冷たい家庭になっていってしまうかもしれません。
 それでは困りますから、女性である教祖が、女性の大変さは重々ご承知の上で、敢えて「だからこそ、出来るだけ愛想よく、明るい返事や挨拶を心掛けて通るのやで」とお仕込みくださったのではないかと悟らせて頂きます。
 ひょっとしたら、女性の中にはこの悟りに対して不快に感じる方もおられるかもしれませんが、家庭の治まりを考える時、これは必要な教えであるように感じています。
 
 教祖の教えは、それだけにとどまりません。逸話篇「158 月のものはな、花やで」では、こうしたことについて男性に対してもお諭しくださっています。
 
 ある時、教祖は庭の畑をご覧になりながら、山本利八に対して、「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるものは、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれどな、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も不浄やないで。」とお教えくだされたということです。

 
 この山本利八という人物は山本利三郎先生の父親で、明治37年に86才で出直されていますので、おそらく、このお話の頃は60代半ば位だっただろうと思います。
当時の古いお産の習わしが物語っているように、当時の男性の中には、女性の「月のもの」を不浄と見る考え方があったことでしょう。
 しかし実際には、女性は不浄ではありませんし、その女性特有の役割がゆえに男性と比較して大きな「骨折り」をしてくれています。昨今テレビなどで話題にあがる更年期障害なども、その「骨折り」の一つと言えるかもしれません。そうしたことを理解もせず、また敬意を払わないようなことでは、これも家庭の治まりには繋がっていきません。


 教祖が「男も女も、寸分違わぬ神の子や」と仰せられるように、親神様・教祖は、ただひたすらに世界一れつの子供をたすけたい一条の御心なのですから、常にそれぞれの家庭の治まりを願ってくださっています。だからこそ時として、敢えて厳しく感じるようなお諭しもしてくださるのだと思います。
 
 このように、教祖の御教えは、私たち人間がうっかりすると陥りやすい落とし穴や人間の(さが)のようなものを見抜いて、先回りでおたすけくださる、謂わば「転ばぬ先の杖」なのです。
 しかしながら、逸話篇の教祖のお言葉を平面的に捉えてしまっては、本来的ではない意味に解釈されてしまう恐れがあるように感じます。逆に、しっかりと向き合えば、逸話篇は噛めば噛むほど深い味わいが味わえるものであり、私たちの人生をより豊かに、陽気な方向に導いてくれるものだと思います。


 教祖140年祭に向かうこの旬に、ぜひ皆で教祖の御教えを学び深め、日々の生活に生かしていきたいものです。それ自体が立派な年祭活動だと私は考えています。

『芳洋』R185.6月号「風」より

 私は現在、御本部で学生担当委員会の御用を担わせて頂いております。そこで、今月は若者の丹精について思うところを、少し述べさせて頂きたいと思います。
 
 まず最初にお尋ねしますが、皆さんはお子さんやお孫さんに対して、信仰的にどうなってもらいたいという願いを持っておられますか?
ぜひ、ちょっと考えてみて頂きたいと思います。
 
 たとえば、教会の長男ならば、教会長を継いでもらいたい。長男以外ならば、自発的にひのきしんやおつとめを勤めて、教会を支える人に成人してもらいたいというような親の思いをよく耳にします。また、教会長や布教師になって、バリバリとにをいがけやおたすけに回るような「おたすけ人」に育ってもらいたいと願われる親御さんも、少ないですがおられると思います。
 私が、教会長として若者に願うことは、とにもかくにも、親神様・教祖のご存在とお働きを信じられる人になってもらいたい。あるいは、ご恩報じのできる人になってもらいたいという、ごく基本的な願いです。 
 
 けれども、部内の会長さん方とお話をしていますと、「とにかく、どんな形でも教会につながっていてほしい」「時々でもいいから、教会やおぢばに参拝してほしい」と、そう考えている教会長さんも少なくないように感じます。リアルな話、「若いうちは無理に信仰を押し付けても、関係がギクシャクして逆効果になるだけだから、とりあえずは教会や家族に繋がっていてくれさえいれば、いつか信仰的な転機が訪れるかもしれない」というように考えておられるのかもしれません。それはそれで、親なればこその偽らざる願いであるようにも感じます。
 
 どれが正解ということはなくて、人それぞれの考え方は違うでしょうし、親御さんが置かれている立場や状況によっても違いが出てくるだろうと思います。また、子供さん一人々々の状況や立場でも違ってくるだろうと思います。
 ですが、どういった願いにせよ、その子に「どうなってもらいたいのか」ということを、一度ちゃんと整理して、考えをまとめておく必要があるように思います。もしも、そうでなければ、「その思いを伝える」ということができませんし、もちろん、相手に伝わることもありません。
それから、よく言う「立派なようぼくに育ってもらいたい」とか言われても、子供からすれば、「立派なようぼくって何?」って話ですし、どうすれば、その「立派なようぼく」になれるのかもハッキリ言って分かりません。
 
 また、最近の親御さんは、自分が若い時に親の思いや考えを押し付けられたりして嫌な思いをした経験から、自分の子供には出来るだけ自由にさせてやりたいという気持ちを持った親御さんが多いように感じます。
 もしも、そういう思いでお子さんに接したならば、おそらく、お子さんはその親の願い通りになると思います。つまり、何物にも縛られずに自由に生きていくだろうということです。それはそれでいいのかもしれませんが、もしも我が子にお道に繋がっていってもらいたいと思うのならば、まずは、その明確な思いを持って相手に接するということが何よりも大切なことだと思います。


 そして、押し付けではない、いい意味での期待をかけて育てるということも大切です。
 私事で恐縮ですが、私は小さい頃から、母親に「あんたは曾お爺様の生まれ替わりだ」と言い聞かせられて育ちました。母親は常々「お爺様は、すごく立派な方だったのだから、あんたにもお爺様に負けないぐらい立派な人になってもらわなければならない」と言っていて、非常に厳しく仕込まれたように思います。
 ハッキリいって、そんな母の事が私は苦手で仕方がなかったのですが、それでも曽祖父の生まれ替わりだと言われることは誇らしくて、幼心にもその期待に応えなければならないという使命感のようなものが芽生えていたように思います。
 
 それが、兵神に婿入りすることが決まった時、兵神の三代会長様が婿養子で、しかも、私とよく似た「清水由松」という名前だったことを知った母から「あんた、ひょっとしたら由松先生の生まれ替わりかもしれんね」と言われた時は、ひっくり返りましたが、私たち兄弟は、皆それぞれに幼い頃から誰々の生まれ替わりと言い聞かされて育ってきました。
 もちろん、それがプレッシャーになってしまうこともあるとは思いますが、子供に期待をかけて育てるということも、実はとても大切なことなのではないかと感じています。


 このように、若者の丹精において、まず第一に大事なことは、若者に「どうなっもらいたいのか」という明確な願いを持って接するということだと思います。そして、諦めずに願い続けるということです。また、それと同じくらい大切なことは、その思いをちゃんと伝えるということです。
 
 数年前、ある学生担当委員会の集まりで、表統領先生がご講話くださったのですが、その中で、ご自身がお道に対して斜に構えておられた若い頃の思いを振り返られて、「お道から離れていこうとする若い本人たちにすれば、物を言わない背中など見るはずがありません。そればかりか、自分は信仰の道を通ることを、親から一言も言われたこともないという理屈を与えているようなものだと、そんな考えを持っておりました」とお話しくださいました。
 
 私は、この「物を言わない背中」という表現がとても印象的で、今でもよく覚えているのですが、確かに表統領先生の仰るように若い人と話をしていますと、意外と「お道を通ってほしい」という親の思いを聞いたことがない、というようなことを言う若者がいます。
 教会の長男さんとかであっても、「お前は長男なんだから、しっかりしろ」とか「お前達兄弟で、教会を守っていってほしい」と言われたことはあるけれど、改めて「教会長を継いでほしい」とか「お前が後継者だ」というようなことは言われていないと言うのです。だから、「兄弟の誰かが教会を継ぐんじゃないですか?」と言うのですが、そういう教会はなかなか後継者が定まりません。
 
 親からすれば、当然「お道の信仰を受け継いでほしい」「教会を継いでほしい」と思っているとは思うのですが、きちんと相手に向き合って思いを伝えないから、お互いの気持ちが噛み合っていかないのだと思います。
 「信仰しなさい!」という命令ではなく、「信仰しなければならない」という強制でもなく、「信仰してほしい」という親の願いだけが、若者の心に届くメッセージになると思います。
 
 ですから、次の世代に信仰を伝えていくためには、若い人たちに向き合って、きちんと親の思いを伝えて頂きたいと思います。そして、いい意味での期待をかけてやって頂きたいと思います。
 もちろん、期待に応えてくれる若者ばかりではないとは思いますが、諦めずに願い続けるところにこそ、親神様・教祖のお働きがあると思いますので、ぜひ若者の丹精の第一歩として、全てのお道の大人が、皆で心掛けていきたいことだと思います。 

『芳洋』R185.5月号「風」より

 新年度を迎え、進級、進学、就職と新生活をスタートさせた方も少なくないのではないでしょうか。プロ野球も開幕し、新たな始まりを感じさせる季節となりました。また心機一転、新たな気持ちで進んでまいりたいと思います。
 
 しかしその一方で、予てからのコロナ禍に加え、ロシアによる軍事侵攻、それらの影響によるエネルギー問題、経済問題など、私たちを取り巻く社会状況は、日に日に混迷を深めています。
その中で、なかなか前向きな気持ちにはなれませんが、教祖は明治八年に、「をびや、ほうそ、一子、ちんば、肥、はえで、虫払い、雨乞い、雨あづけ、みのり、むほん」といった、具体的な救けを願うおつとめ「十一通りのおつとめ」をお教えくださいました。
 コロナ禍や戦争といった、あまりも大きな社会問題に対して、信仰では太刀打ちできないと感じてしまいがちですが、親神様・教祖は、こうした問題に対しても、ちゃんと手立てをお教えくださっているのです。やはり、このお道の信仰だけが、この世界を救うことのできる唯一の道なのだと感じます。
 
 しかしながら、コロナ禍やロシアの侵略戦争が世界に与える影響は絶大で、食料不足や資源の不足はより深刻となり、世界の国々で生活困窮者が激増しています。ここに至っては、いよいよ世界一れつの人間が、支え合い助け合わなければ乗り越えられないような状況が目前に迫ってきていることを感じます。
 
 教祖は御在世当時、人々に「この世の元はじまりのお話」をお聞かせになる前に、

「今、世界の人間が、元をしらんから、互に他人と云ってねたみ合ひ、うらみ合ひ、我さへよくばで、皆、勝手/\の心つかひ、甚だしきものは、敵同士になって嫉み合ってゐるのも、元を聞かしたことがないから、仕方がない。
 なれど、この儘にゐては、親が子を殺し、子が親を殺し、いぢらしくて見てゐられぬ。それで、どうしても元をきかせなければならん」と、云ふことをお話しになり、それから、泥海中のお話をお説きになり、しまひに、「かういふ訳故、どんな者でも、仲善くせんければならんで。」(『山名大教会初代会長夫妻自傳』)

とお話しになられていたと伝えられていますが、その原因は、「おふでさき」に
 
 をやこでもふう/\のなかもきよたいも みなめへ/\に心ちがうで (5号-8)

と仰せられるように、人にはそれぞれ、自分の中の価値観や正義というものがあって、それぞれ自分の都合というものがあるからだと思います。
 また、国には国の、民族なら民族の都合や正義というものがあるわけですから、お互いに、自分の正義が一番正しいと言って主張し合えば、この世の中から、争いは決してなくなりません。だからこそ、親神様は元の真実を明かし、一れつの人間が同じ親を持つ兄弟姉妹であることを伝えて、助け合わなければならないとお教えくだされたのだと思います。

 さらに、『稿本天理教教祖伝逸話篇』「三一 天の定規」というお話では、「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」と仰せられています。
 私たち人間の価値観や正義、あるいは常識や道徳さえも、所詮は人間の知恵や経験によって作り出されてきたものですから、人間の元なるをやの思召や陽気ぐらしのために設定された「天の理」に照らせば、必ず偏りやズレがあるわけです。であるならば、世界中の人間が、同じ「天の定規」を我が心の定規として、ズレや偏りを正していく努力をしなければ、世の中の争いや悲しい出来事はなくなりません。
 
 さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。
 
 いま、遠い国々で起こっている悲しい出来事に対して、私たちが出来ることは少ないかもしれません。しかし、一日も早く、世界一れつの人間が支え合い、助け合い、真心を尽くし合えるお互いとなれるよう、身近なところから陽気ぐらしが実現できるよう、共々に努めさせていただきましょう。

『芳洋』R185.4月号「風」より

 私は現在、御本部が開催する天理教基礎講座の事務局長としてつとめています。以前にも書かせて頂いたお話で恐縮ですが、ある日、基礎講座のある講師とお話をしていると、その先生がこんな話を聞かせてくれました。

 その日、先生が南礼拝場前の参道を歩いていると、石畳の参道の真ん中辺りで立ち往生して動けなくなっている若い女性がいたそうです。
「どうしたのかな?」と思い、様子を伺っていると、そこに30代半ばくらいのご婦人が慌てた様子で駆け寄って行くので、何か事件かと思い、その先生も近づいて行ったそうです。すると、大学生と思しき若い女性の白いスカートが自転車の後輪に絡まって、動けなくなってしまっていたのでした。 
 その先生は、普段は本部の営繕部門で勤務されている方で、ちょうど、その時も神殿のメンテナンスに向かうところで、タイミングよく工具箱を持っていたそうです。そこで、自転車の後輪を外してやり、絡まっていたスカートを外してあげました。

 すると、その女性の絡まって黒く汚れてしまったスカートを見て、最初に駆け付けた女性が、「これから学校でしょ? これを履きなさい」と言って、ちょうど車にあった、自分のスカートを持ってきて差し出しました。そして、その女の子がスカートを履き替えると、その姿を見た女性は、「服と合わないか」とつぶやき、今度は、それまで自分が履いていたズボンを脱いで持ってきて、「これに履き替えなさい」と言って女性に差し出したのです。
 かくして、自転車の修理も終わり、女の子が二人にたすけてもらった御礼を述べると、女性は「それ、あげるから、気にしないでね」と言い残して去っていかれたそうです。
 
 その先生は、自分のスカートや履いているズボンさえも迷うことなく差し出した、そのご婦人の行動に、軽い衝撃を受けたのと同時に、たまたまその場に居合わせて、その人だすけのお手伝いをさせてもらったことに、大きな喜びを感じておられました。
 
 皆さんは、この話を聞いて、どう感じられたでしょうか? 悪い印象をお持ちになられましたか? おそらく多くの方が、悪い印象というよりも、ホッコリするような良い印象を受けられたのではないでしょうか。
 人が人を思いやり、偽りのない真心を尽くす。そういう姿には、誰もが心惹かれ、嬉しい気持ちになるものです。
今も昔も、親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情、そして見返りを求めない真心が映画やお芝居の題材となり、多くの人々の心を惹きつけ、幸せや感動を与えてきました。
 
 『天理教教典』第三章「元の理」には、「この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」とあります。
 「混沌たる様を味気なく思召し」とありますが、「あじけない」とは、おもしろみや魅力がなくつまらないことを言います。元々、この世の中には人間がいないわけですから、当然、親子もない、夫婦もない、兄弟や仲間もいない、真心を尽くし合える相手がいない、そんな味気の無い世界であったことと思います。親神様は、そんな味気のない世界に楽しみを見出そうと思召され、人間をお創りくださったのです。
 つまり、親神様は、親子愛、夫婦愛、兄弟愛、友情、そして見返りを求めない真心、そういった人間の心の誠が味わいたくて、この世と人間をお創りくださったのだと思います。

 いま、人と人が争い、傷つけあう姿は、混沌とした世の中の姿であって、親神様は、さぞ味気なく思召されていることと思います。
 冒頭の出来事のように、人と人が偽りのない真心を尽くし合う、そんな世の様が、親神様が見たいと思召された陽気ぐらしの姿なのではないだろうか。そして、それは同時に、私たち自身の願いでもあるかもしれない。そう感じています。

『芳洋』R185.3月号「風」より

 本部のある会議で、「教祖のひながたは暗い。しんどい」とマイナスなイメージを持っている人が少なくないように思うが、教祖のひながたは、辛い、しんどいような場面で、明るく陽気な心で通られたひながたなのだから、明るく語った方がいいのではないか? という意見が出た。

 その意見を受けて、別のある先生が、「教祖は50年の道すがらの中で、私たちからすれば、どちらかと言うと起こってほしくないような状況の中ばかりをお通りくださった。しかし、教祖は、どんなに辛いふしの中でも明るく陽気な心で乗り越えていかれた。だから、『教祖のひながたは暗い。しんどい』と感じてしまうかもしれないけれど、そのおかげで、私たちが、それに近い状況を経験した時、『大丈夫やで!』『きっと乗り越えられるで!』と教祖がそばお応援してくださっているような安心感を得ることができる。『あぁ、教祖は、今の私の為にこのおひながたをお残しくださったのではないか』とさえ思える瞬間がある。それが、教祖のひながたの有難さだと思う」とお話しくださった。

 それを聞いて、『稿本天理教教祖伝逸話篇』の「198 どんな花でもな」というお話を思い出した。
 
 ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、
「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」
と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。
 
 このお話は、明治19年の頃のお話で、官憲の弾圧がいよいよ厳しさを増し、教祖ご自身も大変なご苦労の御道中をお通りくだされていた頃のお話である。そんな中でも、教祖は、優しく、おおらかな御心でお導きくださったことを知り、私自身、心が救われたことがある。
 教祖の御ひながたは、まさに暗闇の中で船の航行を導く灯台の灯りのようだ、と感じている。

『芳洋』R185.2月号「風」より

 兵神の理につながる皆さま、こんにちは。新年早々、新型コロナウイルスが猛威を振るっておりますが、恙なくお過ごしでしょうか?
 
 さて、去る一月四日、御本部にて恒例の「年頭のごあいさつ」が行われました。私も兵神を代表して出席させて頂きました。
 すでに『天理時報』などでも報じられていますが、その場で、真柱様は教祖の年祭について触れられ、十年に一度、年祭を勤めるということになれば、立教189年が教祖140年祭の年に当たり、来年は140年祭を目指す三年千日の動きに入っていくとして、「道を伸展させるためには、いろいろな意味において、教祖の年祭を勤めることは大切なことだと思うので、次の140年祭は勤めさせていただきたい」と述べられました。

 さらに、ご自身が関わった、これまでの教祖年祭を振り返られた上で、「教祖の年祭を勤める意味を徹底させることは、本当に難しいことだとあらためて思う。やはり、伝える側の責任は大きい」、また「伝える側の姿勢としては、信仰姿勢、普段から教祖の教えられたことを身に行い、なるほどの人になる努力をすることを怠ってはならない。その人の信仰から伝わるということはある」とお話しくださいました。
 立教189年の一月に教祖140年祭が勤められる。そして、それまでの三年間は三年千日の年祭活動。このことは、これまでの経験から予測できたこととはいえ、真柱様の御口からこのことに言及して頂き、目標が明確になったようで心が勇みました。

 ところで、真柱様はご挨拶の中で、「教祖の年祭を勤める意味を徹底させることは、本当に難しいことだとあらためて思う」と仰っていますが、本当にそうだと思います。
 教祖の年祭は、普通の人間の年祭とは異なり、故人を偲び、御霊を慰めるためのものではありません。なぜならば、教祖は目に見えるお姿は隠されても、その御心は、元の屋敷に留まって、今も存命のままお働きくださっているからです。つまり、ご存命だから、御霊を偲ぶ必要も、御霊を慰める必要もないということです。

 教祖が、現身を隠されて後も、存命同様に元の屋敷に留まってお働きくださっているという理解は、天理教の信仰者ならば周知のこととなっています。
 そして、このことが、はっきりと示されたのは、明治23年3月17日(陰暦正月27日)のおさしづによってです。
「守はこれまで教祖の御衣物を御守に用い来たりしに、皆出して了いになり、この後は如何に致して宜しきや伺」という「おさしづ」ですが、教祖は明治7年12月より赤衣をお召しになられます。そして、そのお召し下しの赤衣の一部を悪難除けのお守りとしてお下げくださっていたのです。

 おやしきでは、教祖が現身を隠された後も、教祖の赤衣のお召し下しを「お守り」としてご下附くださっていましたが、そのお召し下しの赤衣も全部出してしまったので、今後はどのようにさせて頂いたよいかとご指示を仰いでいます。その伺いに対して、

 さあ/\尋ねる処、守いつ/\続かさにゃならん。赤衣という、いつ/\続かんなれど、そうせいでもいと、何尺何寸買うてそうすればよかろうと思うなれど、赤き 着物に仕立てゝ供え、これをお召し更え下されと願うて、それを以ていつ/\変わらん道という。

という「おさしづ」がありました。

 まず、「守いつ/\続かさにゃならん。」と仰せられ、現身を隠されて尚、子どもをいついつまでも守ってやりたいとの親心をお示しくださっています。そして、教祖の目に見える姿がなくなってしまったので、赤衣のお守りを続けることは難しいと思うだろう。また、それならば、赤い生地を何尺何寸買って来て、それをお守りにして渡せばよいと考えるかもしれない。しかし、そうではない。御在世の時と同様に赤い着物を仕立てて、これを供えて、「これにお召し更え下され」と願うようにせよ。そうしてくれたならば、それを以て、いついつまでも変わらぬ守護をしてやろう、と仰せくださっています。

 このお言葉を受けて、赤衣を供えるのは、御休息所の教祖のご霊前へ供えればよいのでしょうか。それとも、教祖の代理たる役割をおつとめくださっている本席様にお願いして、着て頂けばよろしいのでしょうか、とお伺いすると、

 さあ/\これまで住んで居る。何処へも行てはせんで、何処へも行てはせんで。日日の道を見て思やんしてくれねばならん。

とのお言葉がありました。ここで初めて、教祖が、現身を隠される以前と同様に元の屋敷にお留まりくださっていて、いまも日々お働きくださっているという「存命の理」が明かされたのです。

 また、「押して、御霊前へ赤衣物に仕立て、御召し下されませと御願い致しますにや」という伺いに対しては、

 さあ/\ちゃんと仕立て御召し更えが出来ましたと言うて、夏なれば単衣、寒くなれば袷、それ/\旬々の物を拵え、それを着て働くのやで。姿は見えんだけやで、同んなし事やで、姿が無いばかりやで。

とお答えくださっています。

 さらに、明治25年2月18日夜の「おさしづ」では、

 ・・・(前略)・・・休息所日々綺麗にして、日々の給仕、これどうでも存命中の心で行かにゃならん。・・・(中略)・・・存命中同然の道を運ぶなら、世界映す又々映す。・・・(中略)・・・宵の間は灯りの一つの処は二つも点け、心ある者話もして暮らしてもらいたい。一日の日が了えばそれ切り、風呂場の処もすっきり洗い、綺麗にして焚いて居る心、皆それ/\一つの心に頼み置こう。

とも仰せられています。

 以前にも何度かお話ししたことがありますが、十数年前、私が本部で青年勤めをさせて頂いていた時、ある本部員先生からお話を聞かせて頂く機会がありました。
 その先生は、私たち青年たちに対して、「最近はな、本部へ参拝に来る人を見ていると、神殿には参拝に来るけれど、神殿から教祖殿へ向いて遙拝で済ます人が多いな。だけどな、そんな水臭い事しとったらあかんで。教祖は私たちの親なんや。親なんやから、子どもの顔を見るのを楽しみに、首を長くして待っていてくださるんや。それを、こんなにも近くまで来て、顔も見せずに帰るというのは、こんなに親不孝なことはないんやぞ」とお話くださいました。

 「水臭い」「親不孝」という言葉を聞いて、なんだか「なるほどなぁ」と思いました。また、その先生の「教祖は親なんや」「ご存命でそこにおられるんや」という「ご存命の教祖」を想う信仰信念みたいなものが、心に突き刺さったような気がしました。それ以来、私たち夫婦も可能な限り教祖殿へ足を運ばせてもらうようにしています。

 教祖ご存命の理」、頭で理解することも大切ですが、やはり、肌で感じるというか、足繁く足を運ばせてもらって、教祖に顔を見て頂いて、息をかけて頂いて、そうやってご存命の教祖の温もりを感じていくことが一番確かな気がします。
 また、そういう「教祖はご存命でそこにおられるんや」という信仰信念を映していく意識も、信仰を伝えていく上では、大切にしなければならないことではないかと感じています。
 教祖の年祭に向けて勇んでつとめさせて頂きましょう。

『芳洋』R185.1月号「風」より

 兵神の理につながる皆様におかれましては、本年も一年、それぞれのお立場の上に、またお道の御用の上に精一杯の誠真実をもっておつとめくださったことと存じます。心より厚く御礼申し上げますとともに、新たに迎えます年が、皆さまにとって健やかな喜び多い一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。

 さて、新年を迎えるに当たり、新しい成人目標を考えましたので、ご説明させて頂きたいと思います。
 
 一、朝起き・正直・働きの実践を心掛けよう。
 一、「日々の理」を実践し、毎日のお連れ通りを願おう。
 
 まず、「朝起き・正直・働き」の実践ですが、おかげさまで、すでに実践を心掛けてくださっている方が大勢おられます。すでに取り組んでくださっている方は、引き続き実践をお願いいたします。また、まだ実践できていない方は、これが信仰の土台となりますから、ぜひ心を定めて取り組んで頂きたいと思います。

 次に、「日々の理」についてですが、これも、以前から婦人会兵神支部では「日々のお供え」として取り組んでくださっていますし、年間の心定めの項目にも「日々の理」とあり、清水國雄四代会長の頃から取り組んで頂いている実践項目です。
 それを、あらためて成人目標とする意図ですが、ここで皆様にお願いしたいのは、「毎日」、「自ら御神前へ足を運び」、「その日一日のお連れ通りを願う〝理立て〟としてお供えを添えさせて頂く」ということです。おさしづに、

 日々運ぶ尽くす理を受け取りて日々守護と言う。(明治26年12月6日)

とありますが、「日々の理」とは、おそらく「日々運ぶ尽くす理」という意味だと思います。そこからすれば、「日々の理」というのは、金銭のお尽くしだけではなく、身や心を尽くすこと、あるいは、ぢばに足を運ぶことも含んでいるように思います。

 教祖の高弟に山中忠七という先生がおられますが、この先生は、教祖とそのご家族が貧のどん底をお通りくださっていた頃、大豆越村にある自宅から、毎日白米を一升ずつ袋に入れて、おやしきへ通われたそうです。おやしきでは大層喜ばれたので、家族の方が「そんなに喜んで頂けるのなら、五斗俵でお供えさせてもらったらいいのに」と言うと、教祖は、「毎日毎日、こうして運んでくれるのが結構やで。」と仰ってくださっていると家族に言い聞かせ、その後も一升ずつの白米を持って、毎日おやしきへ足を運ばれたそうです。
 まとめて運ぼうが、分けて運ぼうが、人間からすれば、どちらでもいいことかもしれません。しかし、毎日々々自ら足を運んで、親神様・教祖にお米を献じさせて頂くということは、30日なら30回分、365日なら365回分の真実の心を運ぶということになります。ひと月に一回まとめてというのでは、お米の量は変わりませんが、神様がお受け取りくださる真実には大きな差が生じるのだと思います。

 ですから、山中先生のように「毎日、自ら御神前へ足を運ぶ」ということを第一のポイントとしたいと思います。ちなみに、私が御神前と言っているのは、教会に足を運んでもいいし、家にお祀りしているお社でもいい。それがなければ、家の上座に賽銭箱を置いて、場所を決めて運ぶのでもいいと思います。とにかく神様に心を運ばせてもらうことが大切で、金額はたとえ10円でも100円でも構いません。大事なことは、5人家族なら5人一人ひとりが自分自身で御神前へ参り出て、自らの手でお供えをするということが、信仰実践としての「日々の理」であると考えます。婦人会のように「日々のお供え」と呼んで頂いても結構です。

 また、おさしづに、

 危ない事、微かな理で救かるは日々の理という。 (明治26年4月29日)

と仰せられていますが、危機に直面した時、ほんの一瞬の差で難を逃れる場合もあれば、逆に運悪く、一瞬の差で巻き添えになってしまう場合もあります。その危うい局面で難を逃れさせて頂いたり、大難を小難に治めて頂けるのは、「日々運ぶ尽くす理」を神様が受け取って働いてくださるからだということなのでしょう。
 ですから、一日のはじめに、その日一日のお連れ通りを願う〝理立て〟として、わずかばかりでもお供えを添えさせて頂くことが大切なポイントとなるのです。

 「理立て」は、現在では金銭のお供えを表す言葉として使われていますが、なぜ同じ金銭のお供えをわざわざ「理立て」や「お尽くし」と呼び分けるのでしょうか?
 たとえば、私たちが神様に何事かをお願いする時には、「自分の力」(自分の理)では叶えられそうにないと思うから、神様におすがりするのだと思います。つまり親神様や教祖のお力(理)を足して頂いて、なんとか願いを叶えたいと思うから願うのだと思います。
 そして、親神様や教祖のお力(理)を足して頂くためには、「価を以て実を買うのやで」と仰せられるように、そのお働きの対価として「誠真実の心」が必要となりますが、その真心を表す形として、「二の切り」といわれる金銭のお供えを添えさせて頂く、それが「理立て」ということではないかと考えています。

 古今東西、信仰というものは、元来、祈願(お願い)からはじまるものだと思います。お道の場合でも、初代の信仰者のほとんどが、身上・事情の治まりを祈願(お願い)するところから信仰が始まったはずです。
 しかし、信仰の代を重ねるとだんだんと結構になり、神様に祈願する必要性を感じなくなってしまうことがあります。また、現在の信仰スタイルは、教会、特に月次祭を中心としたものとなっていて、日常の生活とは少し距離がある場合が多いように感じます。
 初代の信仰者ならば、にをいがけやおたすけで入信したのだから、当然、教会長や布教師の行動範囲内、つまり教会の周辺に住居を持つ人がほとんどだったと思います。しかし、時代や信仰の代を重ねるにつれて、転居せざるを得なくなるのは自然の成り行きというものですし、教会と距離ができてしまうのも仕方のないことです。

 こうした状況においては、信仰を日常の生活に落とし込んでいかなければ、信仰の喜びや実感を味わうことは難しいかもしれません。信仰は個人の自由ですので、どんな信仰をしようが、その人の勝手ですが、このお道が本来の「人がたすかる信仰」「人がたすかっていく信仰」となるためには、日々願って通り、親神様・教祖のお働きを感じていく必要があると思います。やはり信仰というものは、祈願(お願い)からしか積み上がっていかないものだと私は思います。

 願うからこそ、親神様のお働きに気づけるのです。願わなければ、なにか不思議なご守護を頂いても、ただ「ラッキー」だったとしか思いません。しかし、それでは、神様にお礼を申し上げることもなく、ただ恩が重なっていくばかりです。
 逆に、毎日願って通れば、日々我が身に起こってくる出来事の中に、親神様のお働きや親心を感じる瞬間が訪れるはずです。そうして、お願いとお礼を繰り返していくうちに、親神様、教祖との心のパイプがつながり、いざという時に、親神様・教祖におすがりできる信仰が培われていくのだと思います。

 次の世代に信仰の値打ちや喜びを伝えていくためにも、まずは、この「日々の理」「日々のお供え」の実践から始めていきたいと思います。
新たな一年も、どうぞよろしくお願いいたします。

『芳洋』R184.12月号「風」より

 十月二十三日の秋季大祭には、世話人・上田嘉太郎先生が二年半ぶりにご参拝くださり、祭典講話をおつとめくださいました。
 世話人先生は、お話のテーマについて、事前に希望をお尋ねくださったので、私は、「おやさまのお話をお聴かせいただきたいです」と申し上げました。すると、同じ世話人教会の撫養大教会の会長さんも同じこと言っていたと仰ってご快諾くださいました。世話人先生のご講話は、今月号と来月号の芳洋に全文掲載させていただきます。

 さて、私がなぜ「おやさまのお話」をリクエストしたのかということですが、理由は単純で、兵神の皆様に教祖のお話を聴いてもらう機会が少ないと感じたからです。もちろん御本部の神殿講話や大教会の祭典講話でも、教祖のお話は出てくるのですが、教祖のみちすがらやおひながたについて真正面から聴かせていただく機会は、ほとんどないように思います。これは、私自身の反省でもあります。
 これまでの先例に倣いますと、あと一年も経てば、教祖百四十年祭の年祭活動がはじまります。しかし、実際のところ、教祖の年祭といっても「正直ピンと来ない」という方も少なくないはずです。

 そもそも、教祖の年祭はなぜつとめられるのでしょうか? それは、「私たちの真実の親である教祖の親心にお応えしたい。」「教祖の御恩に報いたい。」「大恩ある教祖の年祭をつとめずにはいられない。」、そんな止むにやまれぬ心情からなのではないでしょうか。
 では、そもそも教祖は何をなされた方なのでしょうか? また、教祖は、どんなお姿をされていて、どんなご日常をお過ごしになられていたのでしょうか? そういう知識やイメージもなしに、教祖を親だとか恩人だとか感じることは難しいかもしれません。

 言うまでもなく、このお道は、教祖お一人からはじまった道であり、私たちの信仰にとって、教祖は決して欠くことのできないご存在です。ですから、来年、年祭活動の旬を迎えるに当たって、ぜひ教祖について、共々に理解を深めさせていただきたいと思います。
 そこで、来年一月の春季大祭から一年間は、大教会の祭典講話のテーマを全て「おやさま」とさせていただきます。まず手はじめに一月、二月と私がお話をさせていただきます。できれば、兵神部内のお教会でも来年一年間は「おやさま」をテーマにお話をしていただけたら、来るべき年祭活動に向けた良き理づくりになるのではないかと思います。
 この道の信仰者であるお互いが、ご存命の教祖のぬくもりを心に感じながら、直向きにひながたの道を辿らせて頂く、そんな成人の機会にできればと願っています。

『芳洋』R184.11月号「風」より

 立教から百八十年余り、教祖お一人からはじまったこのお道は、いまも脈々と受け継がれ、私を含め多くの人々がたすけられています。本当にありがたいことです。
しかしながら、昨年来、教会の統合、御本部への御目標様のお戻りということが進められ、残念ながら多くの教会が、その歴史に幕を下ろすこととなりました。致し方のないこととはいえ、大教会長として大きく責任を感じるとともに、「なんとかしなければならない」という気持ちが湧いてきます。

 そんなある日、青年会本部から出版されている『たすけ一条に生きる』という本を読み返していますと、筒井敬一という先生へのインタビューが収録されており、その中に以下のような内容がありました。

 教祖百年祭をつとめ終えてしばらく経った頃、当時の布教部の講演講師が集まって、「教会を盛大にするにはどうしたらよいか?」という話し合いをされていたそうです。
 そこで、立場のある先生方が喧々諤々の議論をされていたそうですが、その場に常岡一郎という有名な先生がおられました。
 しかし、常岡先生は終始、一言も発することなく黙って座っておられたので、常日頃から常岡先生を敬愛していた筒井敬一先生は、せっかく常岡一郎大先生がおられるのに、一言もご高説を頂かないというのは大変もったいないことであるから、ぜひ一言賜りたいと申し出たそうです。

 すると、常岡先生は「そうですか。じゃ失礼します」と言ってお立ちになって、

「私は二十歳のときに大喀血をして、それで死んだんだ。
その死ぬところを、父からおさづけをしてもらい、不思議にたすけていただいた。それ以来、天理教の信仰をしている。
 そして、一日も欠かすことなく教祖のお供を続けている。
 教祖は、私にいろんなことを教えてくださった。けれど、私は教祖から「教会を盛大にしなさい」ということを聞いたことがない。
 教祖が、私に一貫して教えてくださったのは、「人をたすけなさい」ということ。「教会を盛大にしなさい」とは一言もおっしゃられなかったが、「人をたすけなさい」とはおっしゃった。
 だから、人をたすけるという方向へ向かって、私はお言葉に沿って通っております。以上です。どうもありがとうございました。」

と言って座られた、というエピソードです。

 私は、これを読んで、胸が震える思いがしました。
 常岡先生の仰る通りだと思います。私たちが信仰する目的は、人をたすけて、世界の人々と共に陽気ぐらしをするためであって、教会を盛大にするためではないのです。教会が盛大な姿になるのは、それだけ沢山の人がたすかっていったという結果の姿に過ぎないのです。
 どれだけ歴史を重ねても、また代を重ねても、教会というものは、常に「人が救かっていく場所」でなくてはならないし、お道の信仰は「人が救かっていく信仰」でなくてはならないと思います。

 「おさづけ」でも「お話」でも、私たちようぼくの役割は「取り次ぎ」です。「取り次ぐ」というのは、教祖の高弟の先生がそうであったように、お道の門を叩く人々に対して、教祖に代わってお話やおさづけを取り次がせて頂くことだと思います。
 それで働いてくださるのは、親神様であり教祖ですから、、私たちは、ただ教えて頂いた通りに、何も足さずにそのまま取り次がせてもらえばいいわけです。つまり、たすけを求める方に対して、たすけたい親神様や教祖の御心にしっかりと繋がってもらえるよう、上手に繋いでいくのが私たちの仕事だと思うのです。
 そこに少しだけ真実を添えさせてもらえばいいのです。

 少し気が早いですが、これから教祖百四十年祭の旬に向けて、兵神大教会が尚一層「人が救かっていく場所」となるよう、各々が教祖の取次ぎの御用をしっかりとつとめさせて頂き、親神様、教祖の不思議自由のお働きをお見せ頂く、その機運を高めて参りたいと思います。

『芳洋』R184.10月号「風」より

 みなさん、お元気でお過ごしでしょうか? おかげさまで、私たち夫婦、そして母も恙なく過ごさせて頂いております。
 
 さて、新型コロナウイルスの事情が長引く中、今後どうしていけばよいのか、天理教の教会はどうあるべきなのか、そんなことを考える機会が増えてきたように感じます。
 また、本部の御用のため大教会で過ごせる時間が極端に減り、こうした状況の中で、自分は大教会や兵神につながる皆さんのために何ができるのだろうか? と自問自答を繰り返す日々が続いています。

 しかし、いくら自問自答してみても、結局は役目も十分に果たせず、今後向かうべき方向性を見出すことすらできない自分に苛立ちを感じたり落ち込んだりしています。申し訳ない限りです。
 要するに私は高慢な人間なのです。自分に何ができるとか、方向性を指し示すとか思っている時点で高慢です。今はただ自分にできることをやるしかないのです。
 今月の二十六日で、私は丸九年会長として勤めさせて頂いたことになりますが、私はいつも「どうなってもらいたい」とか「どうしてもらいたい」と、人に真実を求めてばかりで、自分自身は十分に真実を尽くせていなかったように思います。
いかに自分が、人に求める心の強い人間であったか、そのことに気づかされました。

 私たちの教祖は、決して人に求めることはなされませんでした。それどころか、いつも目の前の誰かに対して、満足を与えよう、喜びを与えようと、与える一方の御心であられたように思います。
 教祖は、誰彼の隔てなく物を与え、金銭を与え、温もりを与え、希望をお与えになられました。さらには、教えを与え、気づきを与え、勇気を与え、目標をお与えくださいました。人に真実を求めるのではなく、人に与える心を持つこと、これも教祖の「ひながた」と言えるかもしれません。
 思うに、人に求める心は暗く、かえって苦しみを生み出すものです。逆に、人に与える心は明るく、自分の心に喜びを与えてくれるように思います。

 真柱様は、今年の年頭のごあいさつで「丹精」について言及なされましたが、時間や労力、お金や物、すなわち自分に与えられているものを誰かのために差し出すということが、丹精において大事なポイントであるように感じます。
 お金や物、時間や労力、自分に与えられている物を誰かのために差し出すということは、簡単そうに見えて、意外と難しいことです。普通に考えれば、自分にメリットがないばかりか、自分の分がなくなって、自分が困るかもしれないというリスクを負うからです。けれども、だからこそ親神様、教祖の受け取りがあって、人の心にも届くのだと思います。

 先日、私が担当している基礎講座のある講師と話をしていると、こんな話を聞かせてくださいました。
 その日、本部の近くを歩いていると、南正面の参道の真ん中で立ち往生して動けなくなっている若い女性を見かけたそうです。そこに、三十代半ばくらいのご婦人が慌てた様子で駆け寄って行ったので、何か事件かと思い近づいて行ったそうです。すると、大学生くらいの若い女性の白いスカートが自転車の後輪に絡まって、動けなくなっていたのでした。 
 その講師は、本部の営繕部の勤務者の方で、ちょうど神殿のメンテナンスに向かうところだったので、タイミングよく工具箱を持っていたそうです。そこで、自転車の後輪を外して絡まっていたスカートを外してあげたそうです。

 すると、最初に駆け付けた女性が「これを履きなさい」といって自分の持っていたスカートを差し出したそうです。そして、そのスカートに着替えた女の子を見て、女性は「合わないか」とつぶやき、今度はそれまで自分が履いていたズボンを着替えて持ってきて、これに履き替えなさいと女性に手渡したそうです。
 自転車の修理も終わり、若い女性が二人にたすけてもらった御礼を述べると、「それ、あげるから、気にしないでね」と言い残して去っていかれたそうです。
 その講師は、迷うことなく自分のズボンを差し出したそのご婦人の行動に感動を覚えたのと同時に、たまたまその場に居合わせて、人だすけのお手伝いをさせてもらったことに、大きな喜びを感じておられました。

 このお二人のように、誰かのためにお金や物、時間や労力を差し出し尽くすことは、決して簡単なことではありませんが、人の心に喜びや明るさを与えてくれるように思います。
 現代社会において、お節介は嫌われがちですが、押し付けではない程よいお節介は、やはり必要なことなのかもしれません。

 現在は、新型コロナウイルスの事情ばかりではなく、いろいろと上手くいかないことの多い今日この頃ですが、自分の足元ばかりを見て、上手くいかないことを嘆くよりも、周囲に目を向けて、誰かのために自分の時間や労力を使うことを意識していけば、喜べることも増えていくのかもしれません。
 教祖のように、満足を与えよう、喜びを与えようと、与える一方の心になれたらいいのにな、と思う今日この頃です。

『芳洋』R184.7月号「風」より

 今月は、私たちの心と八つのほこりについて私見を述べさせて頂きたいと思います。
 
自分は縛られている。
いろいろなものに縛られて生きている気がする。
時間、ルール、立場、財産、名声、人間関係・・・。
心が窮屈で不自由だ。
けれども、自分を縛っているものの正体って、一体何なんだろう?
 
成功したい。評価されたい。期待に応えたい。自分が望む通りの結果にしたい。人によく思われたい。人に好かれたい。笑われたくない。侮られたくない。嫌われたくない・・・。
 実は、そんな自分の「執着」によって縛られていることが少なくないように感じます。

「すべての人に好かれるなんてあり得ない」「笑いたければ笑えばいいさ」「いまはダメでもいつか状況が変わる日が来るだろう」「人は人、自分は自分」「ローマは一日にして成らず」「千里の道も一歩から」、そんな風に考えることができれば、随分と心は楽になり、呪縛から解き放たれる、そんな気がします。
 実は、自己評価が高すぎる、あるいは、自分自身に課しているハードルが高すぎるのかもしれませんね。

 教祖は、親神様の思召に沿わない心づかいを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。ほこりは吹けば飛ぶような些細なものですが、油断をしているといつの間にか積もり重なり、ついには、ちょっとやそっとでは綺麗にならないものになってしまいます。
 それと同様に、心づかいは銘々に「我がの理」として許されてはいますが、思召に適かなわない自分中心の勝手な心ばかりを使っていると、やがて心は曇り、濁って、親神様の思召も悟れなければ、親神様のご守護も十分に頂けない、そんな状態に陥ってしまうのです。
 そこで、このほこりの心づかいを反省し、払う手掛かりとして、「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」の八つのほこりを挙げ、さらに「うそとついしょこれきらい」と心づかいの間違いを戒められています。

 けれども、この八つのほこりの心づかいは、どれも無意識のうちに湧き上がってくる当たり前の感情であるようにも思います。たとえば、
をしい「勿体ないなぁ。出したくないなぁ。面倒くさいなぁ」
ほしい「あれが欲しいなぁ。羨ましいなぁ。もっと欲しいなぁ」
にくい「あの人とは合わない。あの人とは口もききたくない」
かわい「我が子がかわいい。うちの犬は特別かわいい」
うらみ「あの人のせいでこうなった。あの人さえいなければ」
はらだち「本当はこうしたかったのに。普通はこうすべきだろう」
よく「あの人の持っているアレがほしい。どうしても手に入れたい」
こうまん「人よりも上に立ちたい。自分は特別な存在だ」
というような感情は、頭で考える前に瞬間的に湧き上げってくる、ごく普通の感情だと思います。ですから、これをコントロールすることは実は簡単なことではありません。

 しかし、その感情を野放しにしたり、その感情に固執してしまったりすると、いつしか、その感情がお化けとなり、いつのまにか心が囚われてしまいます。
 心が囚われてしまいますと、一時の感情が、あらゆるトラブルを巻き起こす火種へと変わってしまいます。すなわち、
をしい「絶対に損をしたくない」、
ほしい「自分にないアレを持っているあの人が妬ましい」、
にくい「あの人をぎゃふんと言わせたい」、
かわいい「我が子だけが私の生きがい」、
うらみ「あの人がいる限り私は幸せになれない」、
はらだち「けしからん。懲らしめてやろう」、
よく「奪ってでも、盗んででも手に入れたい」、
こうまん「のび太のくせに生意気だ」
というように、感情に継続性が加わり、より身勝手で、より人を隔てる心へと変化していってしまうのです。

 たとえば、我が子がかわいいという感情は人間には必要な感情ですが、我が子への過度な思い入れや執着は共依存の関係を生みやすく、子供の自立を妨げるので、結局はお互いにとって不孝な結果を招く場合が多いように感じます。
 また、はらだちの多い人には、正義感の強い人が多いように感じますが、「普通」や「常識」、「正義」というものは、人によって異なるものなので、「けしからん」という思いは一方的な価値観の押し付けになることが少なくありません。
ですから、湧き上がって来た感情は野放しにせず、その都度、胸の掃除をして、心から離す努力をすることが肝心なのではないでしょうか。

 また、何かに縛られて心が不自由だと感じるならば、その自分を縛っているものの正体を見つけ出す必要があるように思います。
「絶対失敗したくない」「こうあらねばならない」「アレがなかったら、生きてはいけない」というような自分を縛りつけている囚われや呪縛の元となっているは一体何なのでしょうか? 
 「なぜ失敗したくないのか?」「なぜ、そうでなければならないのか?」、そうして思案してみますと、「人によく思われたい。自分が望む通りの結果にしたい」という自分の執着こそが、自分を縛っているものの正体であることが発見されるかもしれません。
 結局、自分の思いや思い込みが自分自身を縛っている場合が多いように思います。そこに気付けば、あとは自分次第です。

 教祖は、
『流れる水も同じこと、低い所へ落ち込め、落ち込め。表門構え玄関造りでは救けられん。貧乏せ、貧乏せ。』
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』五 流れる水も同じこと)
との親神様のお言葉に従い、中山家の家財を困っている人々に施し、貧のどん底へと進まれました。
 もちろん、この貧に落ち切るひながたには、様々な意義があることだろうとは思いますが、一つには、地位や名誉・格式・伝統・財産・権威、そういったものに囚われている心を解き放つところに、心を澄ますひながたをお示しくださったものではないかと思います。

 ほこりの心づかいと言えば、「親神様の思召に沿わない心づかい」と説明されることが多のいように思います。
すると、あたかも神様の御心に適わないと悪い事が起こる、だから気を付けなければならない、そんな風に受け取る方があるかもしれません。しかし、そうではありません。
 親神様・教祖は、一時の感情や欲望に流されて、妬んだり、恨んだり、争ったりしている、あるいは心が縛られて、囚われて苦しんでいる我が子の心を不憫に思召されて、陽気ぐらしができるようにと心を澄ます生き方をお教えくださったのだと思います。

 日々、親神様、教祖の親心とお蔭に思いを致し、毎朝一日の初めに、ご守護への感謝と御礼を申し上げ、一日のお連れ通りをお願い申し上げて通る。そして、おつとめで心のほこりを払い、心のつかい方に気を付けて一日を過ごす。
 さらには、一日の終わりには、その日一日のお連れ通りに御礼を申し上げ、一日の間に湧き上がって来た心のほこりをおつとめで払って頂く。
 こうして、親神様、教祖の親心とお蔭に目を向けて、ご守護を感じながら一日一日を過ごさせて頂くことによって、「人によく思われたい。自分が望む通りの結果にしたい」という囚われから心が解き放たれ、澄んだ心になっていけるのではないか、そのように感じています。
 あくまでも個人の悟りに過ぎませんが、何かのヒントになれば幸いです。

『芳洋』R184.6月号「風」より

みなさま、こんにちは。新型コロナウイルスの事情はいまだ終息せず、再び緊急事態宣言が発令される中ですが、それぞれいかがお過ごしでしょうか? 最近では、兵神の関係の方の中にも罹患された方が増えてまいりました。心よりお見舞いを申し上げますとともに、一日も早いご快復をお祈り申し上げます。

 さて私事ですが、去る四月十八日に教会本部の准員にご登用頂きました。またそれに伴い、五月一日付で布教部の庶務課に配属されました。今後は、課長補佐として主に基礎講座を担当し、その他の御用もいろいろと勤めさせて頂く予定です。
 この度の登用に際し、たくさんのお祝いの言葉や品物を頂戴いたしましたこと、この場をお借りしまして、心より厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

 しかし実を言えば、この度の登用を大変光栄に感じてはいるものの、これが嬉しいことかと言えば、内心は複雑な思いが渦巻いています。
現在は目下、突然の環境の変化に苦しんでいます。突然の登用、突然の部署配置、突然の引っ越し、十年以上も本部を離れていた私にとっては、簡単な話ではありません。次々とお与え頂く御用も、たとえ些細なことでも私にとっては初めてのことばかりで、精神的にも体力的にも追い込まれます。
 しかも、いま本部では、財政難と人手不足により部署の統合や業務内容の見直し・整理と、大変な変革を迫られています。その上、コロナ禍と勤務者の働き方改革の影響で本部在籍者の負担が増大、本部准員といえど、トイレ掃除に雑用、庭の手入れ、立派な労働力の一人として扱われています。

 45歳の誕生日を目前に、また初心に戻って一から青年勤めをさせて頂いているようで楽しくもありますが、時には理不尽に感じるような喜べないこともあります。そんな時は、「これはふしなのかもしれない」、「私と兵神大教会が、新たな展開に向かうために必要なふしなのだろう」と思うことにしています。
 今後は詰所に生活の拠点を置き、用事に合わせて大教会へ戻るという生活に変わります。皆様にも、何かとご迷惑をお掛けすることになるかと思いますが、これも道の上の大事な勤めですので、何卒お許し願いたいと存じます。

 さて、「ふし」と言えば、今まさに多くの方が「ふし」に直面されているのではないでしょうか。
 教祖は、「ふしから芽が出る」「ふしから大きいなるのやで」と仰せられ、ふしに向かうひながたをお残し下さいましたが、困難な状況の中にこそ、信仰の真価が問われるものですし、信仰の有難さが感じられると思います。
 「体験」と「経験」という言葉がありますが、体験と経験は異なります。「体験」は、行動することそれ自体を指し、「経験」は、行動した上で知識や技能を身に付けることを意味します。また、体験は「体験値」とは言いませんが、経験は「経験値」といって積み重ねられるものでもあります。つまり、同じ困難な状況でも、それをただ体験するのか、それとも心と頭を使って必死に思案して、改善のための努力を尽くすかによって、その後の展開に大きな違いが現れてくると思うのです。これは、あくまでも一般論にすぎませんが、「おさしづ」では、ふしについて次のように述べられています。

何でも洗い切る。今の処すっきり止めたと思えば、すっきり掃除。これまですっきり掃除すると言うてある。ふしからふしからの芽が出てある。こんな中から芽が出る。ちょっとの芽は一寸取れる、すっきり取れる。すっきり掃除。内から内へどっちもこっちも案じる事は要らんで。(明治二十一年三月九日)

さあ/\万事々々、あれも一つ、こちらも一つ、ふし/\心一つ定め。どういう、あちらもふしや、こちらもふしや、だん/\ふしや。心定めの理や/\、定め心の理や。前々より聞かして、定め一つの理や。早く心改め。早くふしを治め治め。順序一つの理を聞き分け。通し掛けた道は、通さにゃならん。早く一つの理。(明治二十一年九月十日)

年々の道、幾重のふしがある。ふしからふしが栄える一つの理。(明治二十二年二月二十一日)

一つのふしが無ければ聞き分けが出来ん。身上から一つの事情を尋ねる、尋ねるで知らす。(明治二十二年十月九日)

さあ/\事情運んでやれ。一時には怖わいようなもの、恐ろしいようなもの。後々案ぜる事もあろ。何も案じる事要らん。ふしという、ふしから世界治まる。さあさあ勇む/\。世界も勇むで。(明治二十七年五月二日)

ずつない事はふし。ふしから芽を吹く。やれふしや/\、楽しみやと、大き心を持ってくれ。(明治二十七年三月五日)

もうあかんかいなあ/\というは、ふしという。精神定めて、しっかり踏ん張りてくれ。踏ん張りて働くは天の理である、と、これ諭し置こう。(明治三十七年八月二十三日)

 「おふでさき」に、
 
だん/\とこどものしゆせまちかねる 神のをもわくこればかりなり (第四号六五)
 
と仰せられますが、親神様は「もっと大きな仕事を任せたい」、「もっと大きくしてやろう」、そんな深い親心から、あるいは子供の行く末を案じられる上から、ふしをお見せくださるのかもしれません。
人は、ふしでもなければ、立ち止まったり、それまでの歩み方を改め変えようとは思えないものだからです。

 親神様は、いつも子供たすけたい一条の親心で、私たちをお見守りくださっています。しかし、いつまでも心配な子供ばかりでは、親もしんどいですし、楽しみがありません。親の思いを聞き分ける頼もしい子供が出てくるからこそ、親の楽しみや喜びがあるのではないでしょうか。
 「陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたい」との親心に、少しでも報いることができるよう、「ふしから芽を吹く」成人の歩みを進めさせて頂きましょう。

『芳洋』R184.5月号「風」より

新型コロナウイルスによるパンデミックの発生から、すでに一年以上が経ちました。
今ではWITHコロナの生活にもすっかり慣れてしまいましたが、このコロナ禍を通して多くの人が感じたことは、「これまで当たり前だと思っていたことが、当たり前じゃなくなってしまった。」、「私たちが当たり前だと感じていたことは、実は当たり前ではありませんでした。」というような気づきです。お道の信仰のある無しに拘らず、今まで当たり前だと思っていたことは、実は当たり前ではなかったという実感を共有したように感じます。
ところで、「当たり前」の反対語は、「とんでもない」「もってのほか」なのだそうですが、私の感覚では、「当たり前」の反対は「有難い」ではないかと感じています。
「有難い」は「有ることが難しい」と書きますが、WITHコロナの生活を通して、マスクや消毒液、学校の授業、送別会、家族の団らん、人とのふれあい、健康や自由、誰もが「ごく普通のこと」「ありふれたこと」、つまり、私たちが当たり前だと思っていた物事は、実は「有難い」ことだったのだと気づくことができました。
でも、よく考えてみれば、地震、津波、豪雨、台風、自然火災など、私たちはこの十年の間に人間には為す術のない大自然の圧倒的な力を何度も目の当たりにして、その度に「私たちが当たり前だと思っていたことは実は当たり前じゃないんだ」と感じてきたように思います。そして、その都度人間の無力さを味わい、何かしらの感謝と畏れの念を抱いてきようにも感じます。
ところが、私たちは何度同じような経験をしても、すぐに忘れてしまいます。なぜならば、すべてが「当たり前」だと感じてしまう程、親神様の御守護がさり気なく、しかも万全な御守護だからなのです。昔ならば、その感謝の心や畏れの念を忘れてしまわないように、年毎の祭祀や土地々々の信仰として受け継がれてきたことでしょう。
「おふでさき」に
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ(三号 135)
めへ/\のみのうちよりのかりものを しらずにいてハなにもわからん(三号 137)
とお示し頂きますが、私たちお道の信仰者は、親神様の「十全の御守護」と「かしもの・かりものの理」をお説き明かし頂いていますので、世の中の人々が当たり前だと感じている物事の裏には、親神様のお働きと親心が込められていることを知っています。
けれども、知っているだけではダメですし、「ありがたい」「もったいない」と心の内で思うだけでは十分ではありません。まずは親神様の親心とお蔭を知り、その上で、その御恩に対して御礼が言えるようになってこそ、お道の信仰者だと思います。
おつとめやひのきしん、人だすけやお尽くしは、どれも基本的には親神様への御恩報じの行いですが、親神様にお受け取り頂くためには、届けるための行動が必要です。
 
WITHコロナの生活は、まだしばらく続きそうですが、この事情を通して私たちがどう変われば親神様・教祖の御心に適うのでしょうか? また、どうすれば、このふしから芽を吹く御守護をお見せ頂けるのでしょうか? そこを思案する必要があるように思います。ただ茫然と立ち止まっているだけでは、信仰の意味はなくなってしまいます。
ですから、このお道を信仰するお互いは、この新型コロナの事情から、「私たちが普段当たり前だと思っていたことは、実はとても有難いことばかりだったのだと身に染みて分かった」という気づきから一歩進んで、「だから毎日朝夕、親神様に御礼とお願いを申し上げることの大切さを改めて感じることができた」と胸を張って言えるような毎日を送らせて頂きたいものです。
さらには、周囲の人々の真心やお蔭にも目を向けて、「今までよりも少し優しい気持ちになれた、低い心になれた気がする」と言えるよう、感謝や慎みの心を言葉や行いに表していければよいと思います。
それでこそ、陽気ぐらしのキーワード「感謝・慎み・たすけあい」を謳う天理教の「なるほど」の姿として世の中に映っていくことでしょう。

『芳洋』R184.4月号「風」より

この世界は、目に見えるものと目に見えないものの両方で成り立っています。
人は、目に見えるものの存在は無条件で信じることができますが、目に見えないものの存在を信じることは、なかなか難しいことのようです。
しかし、目には見えないが存在する、そういうものは確実にあるのです。たとえば、エアコンの風は目には見えませんが、皆あることを知っています。それから、声や匂いも目には見えませんが、確かにあります。これらは目には見えないけれど五感で感じることができるので、信じることができるのだと思います。また、科学的に調べれば、何らかの方法で実在を証明できるかもしれません。

では、「心」はどうでしょう? これも目には見えませんが、誰もがその存在を信じています。けれども、これを科学的に実証することは難しいかもしれません。
目に見えないものは信じない。あるいは、科学的に証明されないものは信じないという方もおられるかもしれませんが、目に見えなくても科学的に証明されなくても、「確かにある」ものがあるのです。

それでは、神様のご存在や人間の魂はどうでしょうか?
世の中には、これらを否定する方も少なくありませんが、これらも目で見ることはできませんし、科学的に証明することもできないと思いますが、昔から多くの人があると信じてきました。
ある時、教祖の高弟・辻忠作先生らが「天理王命の姿は有るかと尋ねられますが、どう答えてよろしゅうございますか」とお尋ねしたところ、教祖は、「あると言えばある、ないと言えばない。願う心の誠から見える利益(りやく)が神の姿やで」とお答えになったそうです。
また、人間の魂については、魂は生き通しで、その一生々々ごとに親神様から身体をお借りして、生れ更わり出更わりを繰り返しているということで、借り物の身体をお返しすると、次に生まれ替わるまでの間は、親神様が抱きしめてくださっているとお聞かせいただきます。

もう一つ、目には見えないけれど、とても大切なものがあります。それは「理(り)」です。
これも目には見えませんし、科学でも証明することのできないものだと思います。「理」とは、一般的に物事の筋道。条理。道理のことであり、不変の法則。原理。理法あるいは、論理的な筋道。理屈。ものの道理を表します。
お道の「理」は、親神様のお働きそのものを指す場合や、親神様がこの世を守護される上で設定されている原理や法則を指す場合があるように考えられます。これを「天の理」と呼ぶのだと思いますが、この天理に沿ってこの世は成り立っているのだと思います。
さらに言えば、その「天の理」の出発点にあるのが、「元の理」です。「元の理」で必ず押さえておかなければならないことは、「元の親」・「元の場所」・「元の思い」の三つです。
「元の親」とは、月日様(くにとこたちのみこと・をもたりのみこと)と「いざなぎのみこと」・「いざなみのみこと」の御四方のことで、「元の場所」とは、母親なる「いざなみのみこと」の胎内に子数が宿し込まれた場所であり、「いざなみのみこと」が子数と共に三年三月留まられた場所の中心、すなわち「ぢば」の地点です。
さらに「元の思い」とは、「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」という親神様の最初の思いです。
親神様の守護は、このような元の理を出発点とする「天の理」に沿って成り立っているものであり、そのルールの下に、私たちの心づかいや行いによって、個々の「理」が拵えられていくのです。

親神様の御心に適う善い心づかいや行いは「誠」とか「真実」と呼ばれ、「功(こう)」や「徳」として積まれていきます。逆に、親神様の御心に適わない悪しき心づかいや行いは、「心のほこり」と呼ばれ、「悪いんねん」として積まれていきます。その「理」が、親神様のご守護に影響を及ぼすというのが「天の理」の基本的なルールなのだと思います。
 明治二十五年一月十三日のおさしづに、
「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。これ聞き分け。」
とあります。

また、諸井政一著『正文遺韻』には、
「いんねんというは、前生ばかり、いんねんというやない。悪しきばかりが、いんねんやない。この世でも十五歳よりこのかた、してきたことは、善きも、悪しきも、皆いんねんとなる。また、前生善きことしてあれば、いんねんとなりて、この世で現れるか、次の世で現れるか、必ず、現れんということはない。悪しきことも、その通りなれども、善きいんねんは、皆一れつ喜ぶことゆえ、すぐと現し、すぐと返してくださる。
されど、悪しきいんねんは、できるだけ延ばしているという。
それ、世界中は皆、神の子どもゆえ、人間の、我が子思うも同じこと。皆可愛いばかりで隔てなきゆえに、悪しきことしても、またそのうちに善きことをして、前の悪しき理を埋めるかしらんと、可愛さに、悪の報いは、だん/\延びる。」
と説明されています。(※読みやすいように漢字に変換しています)

また、「おふでさき」に

 このかやしなんの事やとをもうなよ
 せんあくともにみなかやすてな 五号53
 よき事をゆうてもあしきをもふても
 そのまゝすくにかやす事なり 五号54

とありますが、親神様は、このルールを「かやし」と呼ばれています。

身上の煩いや事情のもつれなどの節が現れてきた時、「なんで親神様は、こんな節をお与えになるんだろうか?」と節の原因を親神様の御心に求める人がありますが、私たちの身に起こってくることは、すべて私たちの心通りであり、私たち人間の心づかいの理に対する「かやし」なのです。
それどころか、おさしづに、
「世界中、みな神の子供。難儀さそう、困らそうという親はあるまい。」(明治20年12月9日)
と仰せられていることから、子供の苦しむ姿を見て、一番心を痛めてご心配くださっているのは、他ならぬ親神様・教祖なのだと思います。
先月号の風でも述べましたが、親神様は常に万全(十全)の守護を以て、私たちをお育てくださっています。そこに、何か不都合が起きる原因のほとんどは、私たちの心の理にあるのです。

では、もしも、我が身に不都合な状況が生じた場合、私たちはどうすればよいのでしょうか? 
一つは胸の掃除です。そして、もう一つは親神様・教祖の親心にすがることでしょう。
しかし、親心にすがるにしても、明治二十年一月十三日(陰暦十二月二十日)の教祖のお言葉に、
「さあ/\実(じつ)があれば実(じつ)があるで。実と言えば知ろまい。真実というは火、水、風。」
「さあ/\実を買うのやで。価(あたい)を以て実を買うのやで。」
と仰せられています。
「実があれば実があるで」の「実」とは、一つ目の「実」が人の心の真実で、二つ目の「実」が親神様の真実を仰せられています。
そして、その親神様の真実というのが火・水・風のご守護だと仰せられるのです。
さらに、「実を買うのやで」の「実」は、いま申した親神様の真実、つまり火・水・風のご守護であって、「価」というのは代価のことです。文脈からして、「人の心の真実」を代価として、親神様の真実、つまり火・水・風のご守護を買うのだと仰せられているのでしょう。

もしも、我が身に不都合な状況が生じた時、すでに「天の帳面」に「功(こう)」や「徳」といった「理」が十分に積んであれば、何も心配はないと思いますが、それが十分でないとしたら、ひたすら受け入れて「たんのう」するか、どこかで理をお借りするしかありません。
その場合、教祖におすがりして親の理を足して頂くのが最良の方法だと思いますが、「頭金(あたまきん)」くらいは自分で用意しなければなりません。なぜなら、「価」がなくては、親神様は働くことができないと仰せられるからです。
では、何を以て「価」とするのか。それが「誠真実」です。お道では、お願いに添える「誠真実」として、心定めや金銭のお尽くし、人だすけ、たんのうなどが挙げられますが、親神様がお受け取りくださるのは、形や行為ではなく「心の誠」です。ですから、何を定めるにしても「精一杯」が必要条件となるのではないかと思います。

この世界は、目に見えるものと目に見えないものの両方で成り立っています。人が目に見えないものの存在を信じることは、なかなか難しいことですが、この目に見えない「理」の世界が、目に見える世界の後ろ盾となっているわけですから、目に見えない「理」の存在を理解し、「理」を重んじて通るところに、私たちが陽気ぐらしに近づく道が見えてくるのではないでしょうか。

『芳洋』R184.3月号「風」より

今月は、お道の教えの世界観について述べたいと思います。
まず、何よりも肝心なことは、親神様が親であるという世界観です。おふでさきに、

せかいぢう神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ   (四号79)

と仰せられるように、紋形ないところからこの世と人間を生み出してくださった元の親なる親神様からすれは、世界中の人間は、みな可愛い我が子だと仰るのです。そればかりか、親神様御自ら、子供である人間に対して、ご自身のことを「親と思え」と仰せくださっています。だからこそ、私達は「天理王命」という神名を持つ神を「親なる神」で「親神様」とお呼び申し上げているのだと思います。
さらに、『稿本天理教教祖伝逸話篇』「104 信心はな」では、教祖が「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」と仰せくださっています。このように、神様を「親」と捉えてお慕い申し上げるところにこそ、このお道の教えの核心があるようです。

では、その「親」である親神様の望みは一体何なのでしょうか? 元の理に「月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた」と教えられていることから、親神様のお望みは「人間の陽気ぐらし」ということになります。

それでは、「陽気ぐらし」とは何でしょう? 実は、これが難しいのです。お恥ずかしながら私自身もはっきりと答えられません。そこで、親の目線で考えてみることにしました。
親が我が子に望むことは何か? それは、まず第一に、「我が子が一人の社会人として立派に身を立てて、生き生きと元気に暮らすこと」ではないでしょうか? また一方で「我が子たちが、兄弟姉妹で仲良く助け合い、支え合って暮らすこと」なのではないでしょうか?
すなわち、親神様の望まれる「陽気ぐらし」も、それに近い事なのだろうと思います。
なんだ、そんな当たり前の事かと笑われるかもしれませんが、実際はどうでしょうか? 
果たして私たちは、そんな親の望みを叶えられているでしょうか?

次に、親神様は立教の時に、「このたび、世界一れつをたすけるために天降った」と仰せられています。ですから、お道の人間は、人間の状態を「たすかる」「たすからない」で判断してしまいがちですが、「たすかる」「たすからない」の基準はなんでしょう? これも親の目線で考えてみたいと思います。
 おそらく親の目から見た我が子は、基本的に「心配」の対象なのではないかと思います。私の両親もいまだに私の心配ばかりしています。そこで、敢えて四段階に分けるとしたら「頼もしい子供」、「安心な子供」、「心配な子供」、「残念な子供」といった感じで分けられるように思います。

他の多くの宗教では、神は偉大にして絶対的な存在であり、人間に裁きや罰を与える存在ですので、その影響か、お道の中でも身上の煩いや事情のもつれを親神様から与えられた罰や試練のように受け取る方がおられるように思います。確かに、おふでさきには「ざねん(残念)」・「りいふく(立腹)」という言葉が多く見受けられますが、果たして親神様は人間に裁きや罰を与えられるご存在なのでしょうか? おふでさきに、

にんけんのハがこのいけんをもてみよ
はらのたつのもかハいゆへから   (五号23)

と仰せられているように、立腹も、我が子が心配だからこその「腹立ち」なのです。
そもそも、身上の煩いや事情のもつれは、そのほとんどが親神様のご意志によるものではなく、私たちの心の理が原因だと教えられています。親の心配をよそに子供が勝手に怪我をしているだけなのです。

そこから考えますと、私たちが自覚しなければならないのは、親の目から見て、自分自身が「心配な子供」なのか「安心な子供」なのか? それよりもむしろ「残念な子供」ではないかという自覚です。 もしも、親に心配ばかりかけてしまっていると思うのならば、生き方や考え方を改める必要があります。
親神様は教祖を通して、我が子が生き生きと元気に陽気に暮らせるように、また、兄弟姉妹が仲良く助け合って、支え合って暮らせるように、人間の本来的な生き方や考え方をお教えくださっています。しかも、教祖が自らお通りくださって、その生き方の手本をお示しくださったのです。だから、お道の信仰は、御教えを生活に落とし込んでいかなければ意味がありません。普通の生活の中で実践してこそ意味があるのです。

天理教では、よく「おたすけ、おたすけ」と言いますが、まずは自分自身がたすかることが先決だと思います。つまり、自分自身が一人の人間として立派に立てるように、そして、親に安心してもらえるように成人していくことが先決だということです。もちろん、ここで言う成人というのは「心の成人」であり精神的な成熟です。決して、周囲の人からの手助けを受けることが未熟だということではありません。

また、現在の天理教では、「おたすけ」以外にも、よく「育成」とか「丹精」とか「育てる」と言いますが、農作物に置き換えて考えてみますと、農作物を育てているのは人間ではありません。農作物を育てているのは土であり水であり日の光です。つまり、親神様のご守護です。人間は、土を耕したり、邪魔な草や石を取り除いたり添え木をしたりと、植物が火水風のご守護を頂いて自ら育つのを手助けしているに過ぎません。人間だって同じです。実際に育ててくださっているのは親神様の十全のお働きであって、人間はその手伝いをしているだけなのです。
そこから思案しますと、まず何よりも大切なことは、自らが育つ意識を持つということ。そして、「自分の足で立てるようになる」ということです。昔から「独り立ち」とか「身を立てる」とか言いますが、「人が自ら立つのを支える」という視点を持ってこそ、本当の「おたすけ」ができるのではないかと考えています。

さらに、「かしもの・かりもの」の教えや「御恩報じ」ということも同じ視点で考えるならば、見え方が変わってきます。
おそらく、親である親神様は、どの子供にも等しく十全のご守護を以てお育てくださっていると思います。十全というのは万全という意味ですから、少しも欠けることのないご守護です。たとえば、その万全なるご守護が、水路を通って流れてくるとするならば、水路が詰まっていては大変です。水路が砂や木の枝やゴミで詰まっていたり、壊れてしまっていたら、せっかくのご守護も台無しです。私は、人の運命が行き詰るというのは、そういうイメージではないかと考えています。そして、その水路が詰まる原因は、すべて私たちの心の理にあるのです。また、おふでさきに

たん/\とをんかかさなりそのゆへハ
きゆばとみへるみちがあるから  (八号54)

と仰せられますが、親神様は恩が重なった我が子の行く末を大変お案じくださっています。
親である親神様は決して見返りがほしくてお世話取りをしてくださっているわけではありませんから、できれば恩着せがましいことは言いたくないけれど、恩が重なり過ぎては水路が詰まり、いずれ運命が行き詰ってしまう。それでは我が子が不憫だから、恩の報じ方、水路の掃除の仕方をお教えくださっているのだと思います。

このように、親神様が親であるというところから、親の目線で御教えを考えてみると、深く悟れるところがありますし、自分がどうすべきなのかが見えてくるように思います。、また、それこそが、教えの点と点とを繋いでくれる御教えの世界観なのです。
このお道の信仰は、拝み祈禱の道ではないと仰せられます。この道の信仰は、教えの理に沿って生活する生き方そのものだと思います。ですから、「通ってこそ道」と言われるように、自らが歩むことが肝心です。まずは、朝起き、正直、働き、この御教えの実践で、親神様の親心に少しでもお応えさせて頂けるよう、日々信仰生活を送らせて頂きましょう。

『芳洋』R184.2月号「風」より

皆さま、こんにちは。新たな年を迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか?
今年は新年早々、新型コロナウイルスの感染者が爆発的に増え、日本中が大変な騒ぎとなっています。そんな状況の中ですが、天理大学のラグビー部が逆境を乗り越えて、初の全国制覇を果たすなど明るいニュースもありました。今年こそはコロナに負けず、皆様お一人おひとりにとって充実した、明るい一年となりますことを心よりお祈り申し上げます。

さて、昨年は新型コロナウイルスによる経済や社会生活への影響はもとより、お道の上からいたしましても、自由におぢばに帰参できなくなったり、月次祭を参拝できなくなったり、さらには事情教会の御本部お戻りなどもあって、まさに激動の一年となりました。そして、いま現在もまた、それが継続中といった状況でありますから、私自身、知らず知らずの内に気持ちが下向きになりがちな今日この頃であります。
しかし、こういう状況だからこそ、教祖の御言葉が私たちの行く道を明るくお照らしくださるように感じます。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』には「198 どんな花でもな」というお話があります。

ある時、清水与之助、梅谷四郎兵衞、平野トラの三名が、教祖の御前に集まって、各自の講社が思うようにいかぬことを語り合うていると、教祖は、
 「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」
と、お聞かせ下されて、お慰め下された、という。

平野楢蔵先生ご夫妻がおやしきの常詰になられたのが明治19年の夏の終わり頃ということですので、このお話はその前後のお話ではないかと思われます。
その頃、のちの兵神大教会の初代会長・清水與之助先生、そして船場大教会の初代会長・梅谷四郎兵衞先生、さらには郡山大教会の初代会長夫人・平野トラ先生が、教祖の前で「なかなか講社が思うようにいきませんなぁ」と口々にボヤかれていたということでしょう。
この当時は官憲の取り締まりが非常に厳しくなっていた時期で、おやしきの門前には巡査が立って、参拝者を追い返したり、脅かしたりして、自由な信仰を妨げていました。
また、おやしきのみならず各地の講社でも官憲の取り締まりや、世間からの反対・攻撃・嫌がらせが激しくなっていて、布教するにも各地の先生方は大変な御苦労をなされていたようです。わが兵神真明講の講元・端田久吉先生はじめ主だった先生方も、警察から言い掛かりをつけられて、明治19年4月25日より27日に至る3日間、当時の兵庫夢野の監獄に収監されたそうです。さらに、翌4月28日には、講社の人々が集まる寄所を取り払い処分に処せられてしまいました。そうしたことが、信仰の浅い講社の人々に多大な衝撃を与え、それが故に退講する者も続出したようです。まさに、講社全体がいずんだ空気に覆われていたのではないかと想像されます。

そんな状況の中で、おそらく、当時の先生方からすれば「こんなことでは教祖に申し訳ない。少しでも教祖に安心して頂けるように。教祖にお喜び頂けるように」というような思いで、躍起になって頭を悩めておられたことだろうと思います。
そこに教祖が、「どんな花でもな、咲く年もあれば、咲かぬ年もあるで。一年咲かんでも、又、年が変われば咲くで。」とお慰めくださったということです。

考えてみれば、私たちもこの先生方と同じような思いを抱くことがあるように思いますが、長い年月の中には、旬が充ちる時もあれば、旬が外れることもあります。また、追い風が吹くような日もあれば、向かい風の日もある。嵐の日だってあります。
けれども、日が変わり、年が変われば、やがて旬が訪れ、いつか追い風が吹く日も訪れるわけで、だから教祖は、「焦らんでもよい。今はただ、たんのうして、先を楽しみに勇んで通れ」とお仕込みくださったのだと思います。
実際に、一昨年は度重なる台風の影響で野菜が不作となり、野菜の価格が高騰しましたが、昨年は逆に台風が少なく、野菜が大豊作で農家が困る程だったそうです。
つまり、教祖が仰せられるように、状況は年々刻々と変わっていくということですから、いまの姿に一喜一憂していずむよりも、「焦らずに前を向いて、先を楽しみに勇んで通れ」とお仕込みくださっているように感じます。

ちなみに、このお言葉を頂かれた当時の初代会長様の年齢は満44歳。奇しくも私の今の年齢も44歳ですから、偶然にもこのタイミングで、この教祖の御言葉に触れさせて頂けたことは、私にとって救いの光明となりました。
嵐の後には、空気も澄んで、綺麗な虹がかかるように、ひょっとしたら、今年か来年には何か良い事があるかもしれません。そのためにも、今の時間をしっかりたんのうして、陽気に前を向いて明るい心で通らせて頂き、日々理を伏せ込んで、有意義な時間を過ごさせて頂きたいと思います。
親神様は、私たち人間にとって、真実の親なるご存在です。その真実の親の願いはいつでも、子どもである人間が生き生きと明るく陽気に暮らすことであり、また、子どもである人間が、互いに仲良く助け合って暮らすことなのだと思います。
ですから、その親の思いに応えられるよう、このお道にお引き寄せ頂いた私たちは、日々共々に勇ませ合って、生き生きと陽気な毎日を過ごさせて頂けるよう、心の成人に努めさせて頂きたいものです。

『芳洋』R184.1月号「風」より

新型コロナウイルスの感染再拡大により、いまだ困難な状況が続いておりますが、皆さまにおかれましては、この一年もそれぞれのお立場の上に、また大教会の上に精一杯の誠真実をもっておつとめくださいましたこと、心より厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
そして、新たに迎えます年が、皆さまにとって健やかな喜び多い一年となりますことを、心よりお祈り申し上げます。

振り返りますと、立教183年(2020年)は新型コロナウイルスの影響により、歴史に残る大変な一年となってしまいました。イベントや行事は軒並み中止を余儀なくされ、生活や経済活動にも多大な影響が及び、これまで当たり前だと思っていたことは、実は当たり前でなかったということに誰もが気づかされるような日々でした。
また、目に見えないウイルスに対する不安と恐怖が社会に混乱を招き、自分勝手な心無い言動や誹謗愁傷、差別などが後を絶たず「身勝手」や「隔て心」といった人の心の理が露わになった一年でもありました。
私の身近には、まだ罹患された方はおられませんが、兵神のようぼくの皆さまの中にも陽性と診断された方がおられたそうですから、新型コロナウイルスは、すぐ近くまで迫ってきているものと認識したほうが良さそうな状況です。
とにもかくにも、お道の信仰者は、一日一日、親神様・教祖にお連れ通りを願って通らせて頂くことが肝心だと感じます。そのためにも、大教会が成人目標として掲げている「朝起き・正直・働き」の信仰実践を改めてお願いしたいと思います。

さて、「朝起き・正直・働き」といえば、「少年会の歌」の歌詞に「三つの教え」として出てきますので、比較的聞き馴染みのあるワードだと思いますが、具体的にどうすることが「朝起き・正直・働き」なのかについては、これまではっきりしたことが分かりませんでした。ですので、兵神大教会としましては、私の悟りの上から、
 
○朝起き・・起床して、まずおつとめを勤め、身上かりものの御礼と御願いから一日を始めよう。
○正直・・八つのほこりの心づかいに気をつけて通ろう。
○働き・・御恩報じのひのきしん、おたすけに誠真実を尽くそう。
 
と呼びかけさせて頂いてまいりましたが、それでは根拠に乏しく、納得がいかないという方もおられたことかと思います。
そこで、改めて、この「朝起き・正直・働き」という教えに向き合ってみたいと思います。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』29  三つの宝
 
 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、 
 「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」
と、仰せられた。
 伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、
 「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
 「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」
と、仰せられた。
 伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。

この逸話の最後に、「伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。」とあるところからして、お言葉を頂かれたご本人である本席(飯降伊蔵)様の日々の通り方を見れば、確かな根拠になると思いますので、『本席の人間像』という本を引用したいと思います。因みに、この本は、兵神の三代会長・清水由松先生の述懐を甥である橋本正治先生が聞き取りし、まとめてくださったものです。清水由松先生は、兵神の会長になられる前は、御本席宅専属の青年として長らくおつとめになられた御方です。

ほのぼのと東の青垣の山の端が白みそめる。ざくざくとゆきかう下駄の音が、ひつきりなしにおやしきを中心に響こう。本席様はしんとして、時折ひそやかに青年が、朝の支度に右往左往する気配があるだけ。
突然寄せ太鼓が鳴ると間もなく、上半身を床の上に起こされる。
 (中略)
洗面は至極簡単に終る。井戸やかたの北側の庭へ出て、おやしきへむいて立つたまま、親神様、教祖様、祖霊様に黙祷されること約十分、始めと終りとに拍手されるだけである。その間におりんさん(※)は、お居間でお召し替えの用意。
御拝が終ると、庭づたいにお居間へ帰られる。※増井りん先生
〈橋本正治著『本席の人間像』(養徳社)88頁〉

と記されています。
少し読みにくく感じられたかもしれませんが、この述懐によれば、本席様は夜が明ける頃にご起床なされて、庭の井戸で洗面を済まし、そのままおやしきの方向に向かって、立ったまま親神様・教祖・祖霊様を礼拝されたということです。
ここでまず大事なポイントは「時刻」です。夜が明ける頃、つまり日の出の時刻が「朝」ということです。今でも教会本部の朝づとめは日の出の時刻に合わせて勤められていますが、昔は目覚まし時計などありませんでしたから、朝と言えば日の出の時刻を言うのが普通だっただろうと思います。
次に大事なポイントは、起床されて洗面を済まされたら、すぐに親神様・教祖・祖霊様を礼拝されているという点です。つまり、本席様の一日の日課の最初が、親神様・教祖・祖霊様への礼拝だったということです。
まとめますと、教祖が仰せられる「朝起き」とは、夜明けとともに起きて、親神様・教祖・祖霊様へのご挨拶から一日を始めるということだと説明できるのではないでしょうか。

次に、「正直」です。これについては、『稿本天理教教祖伝逸話篇』「111 朝、起こされるのと」というお話の中で教祖が、
「陰でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。」
と仰っておられます。裏を返せば、いくら表でよく働き、本人のいる前で相手を褒めてみても、陰でさぼったり、人の陰口を言うようでは正直とは言えません。つまり、「裏表のない心で通れ」ということが、神様が望まれていることなのではないでしょうか。
また、「はい」と聞いていながら、約束や誓いを守ろうとしないのは「うそ」になります。さらに言えば、親神様の思召や戒めを聞かせて頂いて、すでに知っていながら知らん顔して通っているのも正直ではないと仰っているのだと思います。相手の前では良い顔をして、裏で舌を出しているようでは、親神様のお嫌いな「うそ」「ついしょう」となってしまいます。神様は裏も表も見抜き見通しですから、常に裏表のない正直な心で通ることが望まれているのだと思います。

そして、「働き」ですが、これも『稿本天理教教祖伝逸話篇』「197 働く手は」の逸話の中で教祖が、
「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、 側楽・ハタラク)と言うのや。」
とお聞かせくだされています。「はたはたの者」というのは、自分の周りの人たちということです。
飯降伊蔵先生は、櫟本の自宅からおやしきに通われている頃、夜中の帰り道に、橋の壊れているところを見つけては、こっそり修理されていたということです。そこからすると、
人が見ていても見ていなくても、周りの人たちに喜んでもらえるように身や心を尽くす働きが、教祖の仰る「働き」なのだと思います。
以上が、「朝起き・正直・働き」という三つの教えに込められた親神様・教祖の思いだと悟らせて頂きます。これに基づき、兵神大教会の成人目標を一部変更させて頂きました。

○朝起き・・起床して、まずおつとめを勤め、身上かりものの御礼と御願いから一日を始めよう。
○正直・・裏表のない心で通り、御教えの実践を心がけよう。
○働き・・御恩報じのひのきしん、人だすけに誠真実を尽くそう。
 
只今のような長引くコロナの事情の中だからこそ、親神様・教祖のお望みに適うよう、素直な心で、御教えの実践を日々心がけて通らせて頂きたいと思います。
本年も一年、ありがとうございました。

『芳洋』R183.12月号「風」より

今月は、ちょっと私の独り言。
先日、「世界で最も貧しい大統領」として知られる南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が、政界を引退したと報じられた。

氏は報酬の大部分を貧困救済のための財団に寄付し、月1000ドル強で生活している。財産と呼べるものは昔友人からもらった1987年型のワーゲンビートルだけだという。
そんな暮らしぶりから「世界で最も貧しい大統領」と呼ばれているが、本人は貧しいのではなく質素なだけだと言っている。

2012年にブラジルで開催された「地球サミット」リオ会議のスピーチでは、昔の賢人の言葉を借りて、「貧乏な人とは、少ししか物を持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」と述べている。こうしたムヒカ氏の言動や信念が、世界に大きな共感と影響を与えている。
個人的な見解を述べれば、お道の考え方や教祖の教えの方が遥かに優れていると思う。

しかし、いまムヒカ氏の言葉や生き方が人々の心に刺さり、人々の心を動かしているのである。
それはつまり、氏の「生き様」が人々の心に感動や共感を生んでいるのだと思う。

生き様にもいろいろある。「生き様」とは、その人が生きていく態度・ありさま・生き方を指す言葉だが、マザー・テレサのように人に尽くし人のために生きる生き様もあれば、カリスマ的ミュージシャンのように、何物にも縛られず自分らしく生きるという生き様もあると思う。
また、アメリカ大統領の言動を見て、その生き様が「かっこいい」と感じる人もいれば、「かっこ悪い」と感じる人もいて、受け取り方は千差万別である。

さらに言えば、スウェーデンの環境活動家・グレータ・トゥーンベリさんのような十代の若者の生き様が人々の心を動かすことさえあるのだから、年齢や立場は関係ない。
こうして見れば、ひとりの人間の生き様が人の心を動かし、人の心の向きを変えさせるような影響を与えていることがわかる。

Bloomberg.co.jpより

実は、お道も同じである。教祖のご存在やひながたについては言うまでもないが、教祖の高弟と呼ばれる先生方の生き様、各地の講元たちの生き様、そして、それぞれの教会の元一日を成した先人たちの生き様が、多くの人々を感化し導いてきたのである。

ある教会を訪れた時、女性の初代会長さんについて、「初代会長は、理にはとても厳しかったけれど、とにかく優しかった。教祖みたいな人だった」と人々が語っているのを聞いたことがある。派手さはなくとも、やさしさも立派な生き様となるのだ。

「生き様」とは即ち「生き方」のことであるが、「生き様」という言葉は、その人の信念や志・覚悟といったものを感じさせる。
たとえば、人に尽くし人のために生きる生き様であっても、何物にも縛られず自分らしく生きるという生き様であっても、周囲の人々と違う生き方を選択するからには、必ずしんどい思いもするだろうし、何の覚悟もなく通れるものではない。そこには、必ず何らかの「決心」があるはずである。
強い決心があるからこそ、その人の信念や志・覚悟がきらりと輝くのだと思う。

このお道の信仰は、拝み祈祷(きとう)の道ではないとお聞かせ頂く。
この道の信仰は、教えの理に沿って生きる「生き方」であると思う。
また、道は歩むから道なのであって、自ら歩むところに意味がある。つまり、いくら教えについての知識や理解があっても、生き方に反映されなければ、あまり意味を成さないものである。
親神様・教祖は、私たちに人間の本来あるべき生き方、あるいは真にたすかる生き方をお教えくださっている。その生き方を自らが歩む生き方とする「決心」があれば、その道を歩む人の姿はきらりと輝きを放つ「生き様」となって、やがて人の心を動かすかもしれない。
自分は、どんな「生き様」を歩む(残す)ことができるだろうか。そろそろ、心を決めて歩み出す旬(とき)がきているのかもしれない。

『芳洋』R183.11月号「風」より

いよいよ秋の行楽シーズンとなりましたが、皆さんはもう「GO TO キャンペーン」を利用して旅行や食事に行かれましたか? 
こわいもので、これだけ「GO TO」「GO TO」と言われると、旅行やレストランに行かなければ、時代に取り残されてしまうような気がします。
このように、新型コロナウイルスの事情は未だ終息していませんが、集会などの規制が大幅に緩和され、おぢばがえりの団参も条件付きではありますが、自由に計画させて頂ける状況となりました。残念ながら、詰所は「GO TO トラベル」の対象ではありませんが、ぜひ、おぢばがえりをして頂きたいと思います。またこの度、大教会の秋季大祭も人数制限を外して、自由に参拝して頂けるようにいたしました。

しかしながら、新型コロナウイルスが消えて無くなったわけではありませんので、常に様々な対策を講じる必要がありますし、いくら対策しても感染のリスクやクラスター発生のリスクは常に付きまとうわけですから、気を抜くことはできません。ましてや、これほどに活発に人が動けば、どこで感染してもおかしくない状況です。このような状況においては、もう、日々親神様・教祖のお連れ通りを願って通るしかありません。
世の中には、「ビビり過ぎだ」という声もあるようですが、自分が感染することが怖いのではありません。家族や周囲の人を危険に晒してしまうことが怖いのです。
新型コロナウイルスと共に生活するようになって早9カ月になりますが、このふしを通して私たちが学ばなければならなかったことは、「日々、毎日、お連れ通りを願って通る」ということだったのではないかと感じています。

Bloomberg.co.jpより
劇画「教祖物語」より

さて、今月は、立教の元一日天保9年10月26日に所縁ある月ですので、各教会でも秋季大祭をおつとめになられたことと思います。この立教の元一日について親神様は、
 
月日にわせかいぢううをみハたせど
もとはじまりをしりたものなし     十三号30
このもとをどふぞせかいへをしへたさ
そこで月日があらわれてゞた        十三号31
月日にハこのしんぢつをせかへぢうゑ
どうしてなりとをしへたいから   十三号33
 
と仰せられています。このように、この世と人間の元はじまりの真実と元なる親の存在を、なんとかして世界の子供に伝えたいと思召されて、親神様はこの世の表にお現れになったのです。そして、それは世界中の人間を真にたすかる方向へとお導きになるためでありました。

このよふを一れつなるにしんちつを
たすけたいからしらしかけるで       九号28
いまゝでにないたすけをばするからハ
もとをしらさん事にをいてわ         九号29
いまゝでもしらぬ事をばをしへるハ
もとなるをやふたしかしらする      九号30
元なるのをやふたしかにしりたなら
とんな事でもみなひきうける         九号31
 
この世と人間の元はじまりの真実と、元なる親の存在を明かすということは、すなわち「十全の守護」や「かしもの・かりものの理」を明かすことでもあり、そこに込められた親神様・教祖の「親心」を明かすことでもあります。

「この世は神の体、人間は神の懐住まい」とお聞かせ頂くように、人は親神様のご守護と親心に包まれて生かされています。
しかしながら、この御恩や親心を知り、その御恩に対して御礼を申し上げて生きてきた者はありません。大恩をお掛け頂きながら、御礼も言わず、恩に報いることもなく通っていれば、自ずと恩が重なります。
真実の親である親神様が、常に十分にご守護くださっているにも拘らず、身上や事情で苦しむというのは、自らの心づかいによって蒔いた種と恩が重なってしまった結果と言えるでしょう。
もちろん、「をや」である親神様は、子どもに見返りなどお求めになりませんが、子どもたちを救いたいからこそ、恩が重ならない真にたすかる生き方を教えたいのだと思います。
そこから考えますと、このお道の信心を歩む上で最も大切なポイントは、

○親神様・教祖を「をや」と思うこと。
○親神様・教祖のご守護に御礼を申し上げること。
○親神様・教祖にお連れ通りを願って通ること。

この三つではないかと思います。

ひと口に「お道」と言っても様々な段階があると思います。私はこのお道の信仰を大きく分けると、三つの段階になると考えています。
まず第一に、我が身・我が家のたすかりを願う信仰。身上や事情に悩み煩うところから救いを求め、その運命を切り替えるべく親神様・教祖にすがり、たすけを願うのです。お道のみならず、およそ信仰というものは、どんな信仰でも「願い」、「祈る」ところから始まるものだと思います。そして、それが信仰動機となるのです。
次に、だんだんと教えの理が心に修まり、いよいよ「をや」の親心や御恩が悟られてきて、御恩返しに何か少しでも「をや」の手伝いをさせて頂きたいと志す、それが「ようぼく」の信仰です。
第三に、いよいよ「をや」のたすけ一条の親心が我が心となって、
人生を賭して「をや」のたすけ一条の御用を担って生きようと決心する、いわゆる「道一条」、取り次ぎの信仰です。
どの段階も立派なお道の信仰だと思いますが、どの段階であっても、最も重要なポイントは、やはり、前に挙げた三つだと思います。

現代に生きる私たちは、科学技術の発展の成果もあり、大きな富と繁栄を手にしています。そのせいか、世界も自然も人間の知恵や力を以てすれば意のままに支配することができるはずだと過信し、神様や自然に対する畏敬の念や謙虚さが失われ、願うことも減りました。しかし、それは重大な思い違いであり、高慢のほこりです。
今こそ、改めて真実の「をや」の存在に気づくべき時が来ているのだと思います。
それぞれに与えられた寿命を迎えるその日まで、身上の自由が叶い、心の自由が叶うように、また、日々無事に結構にお連れ通り頂けるよう、一日一日謙虚な姿勢で、親神様の御守護と教祖のお連れ通りを願って通らせて頂きましょう。

『芳洋』R183.10月号「風」より

昨年の3月末に教会本部より、会長が不在の無担任教会であり、かつ御目標様がすでにお許し頂いた場所になく、かつ実質的な教勢がない事情教会について、御本部へのお戻り・お預けが打ち出され、兵神大教会部内からは該当する25教会の親神様、教祖の御目標様を、この度、御本部へお戻り、お預けさせて頂きました。
兵神部内教会の内、実に約一割の教会が本来の教会としての役割を果たすことができず、その歴史に終止符を打つことになってしまったことは、誠に申し訳なく、只々残念としか言いようがありませんが、それぞれの教会が今日の姿に至る道中には、戦争の時代があり、地震や洪水といった自然の猛威にも晒され、さらには、それぞれのやむにやまれぬ事情を抱える中で、少しずつ信者さんが減少し、やむを得ず今日の姿に至った経緯があるのですから、単純に誰かを責めるわけにはいきませんが、その原因を探り、課題を明らかにして、再び同じ轍(てつ)を踏まないように改善していくことがとても大切な事だと感じています。

教会が存続できなくなる理由にはいろいろな事情があると思いますが、その中でも最も大きな理由は、その教会に、教会を守り抜こうとする信仰者がいなくなったということだと思います。
教会というものは、『天理教教典』に、「教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所である。」と説明されるように、信仰者が信仰を求めるために設けられた場所であり、親神様、教祖のたすけ一条のお働きを取り次ぐための場所であります。ですから、そこに信仰を求める人間がいなくなれば、自ずと教会もその役割を失うのです。

私は、人が何かを成し遂げようとする時、最も大切なことは明確な動機づけや意義づけではないかと考えています。
もちろん「なんとなく」という場合もあるでしょうが、困難を乗り越え、努力をし、やり抜くためには、「自分は何のためにそれをするのか?」「それをすることで、自分は何を得られるのか?」というような、明確な意義づけや動機が必要になってくると思います。
たとえば、「お供え」、「理立て」、「お尽くし」、「日々の理」、どれも金銭のお供えを指す言葉としてお道では日常的に使われますが、言葉を使い分けているということは、当然、意義づけも異なるということだと思います。
これらの使い分けについて、明確な答えというものは、私自身も聞かせてもらったことはありませんが、私なりに定義いたしますと、
「お供え」とは、親神様、教祖の大恩に対する御礼。人間が日々暮らす中に頂戴する御守護とお掛け頂く親心への感謝を形に表したもの。
「理立て」とは、何か事柄に当たって、親神様、教祖にお願いを申し上げる際に添える誠意を形に表したもの。
「日々の理」とは、一日のはじめに、今日一日を無事にお連れ通り頂きたいという願いに添える「理立て」のこと。
「お尽くし」とは、親神様、教祖の急き込まれる「たすけ一条」の上に、金銭を以て尽くすこと。
このような意義づけができるように思います。どうでしょう? 皆さんの納得のいく説明になっているかどうか分かりませんが、もしも自分自身が納得のいく意義づけが出来れば、物事を前向きに捉えることができるのではないかと思います。
そして、明確な動機や意義づけがあれば、確かな手ごたえを得ることができるでしょう。

私たちの先祖は、この道の信仰に対して明確にそれを持っていたのだと思います。
たとえば、「教祖にお会いしたから」、「自分自身が救けられたから」、「おたすけで奇跡を目の当たりにしたから」、そういった自らの実体験を通して、親神様のご存在とお働きを強く確信しておられたことでしょう。
だからこそ、周囲の人々に反対されようが、バカにされようが、この道を一すじに歩めたのだと思います。それこそが信仰のエンジンとなったのです。


自分は何のために、この道を歩むのか?
この道を信仰することで、自分は何を得られるのか?
自分にとって教会とは何か?
 
そう問われた時、あなたは何を思うでしょうか? 

それぞれに答えは違うかもしれませんし、統一された答えがあるわけでもないかもしれません。また、今はまだハッキリとした答えを見つけられないという方も、決して焦る必要はありません。しかし、それぞれが自分の心に問いかけて、自分なりの答えを導き出す必要があるように思います。
なぜなら、それこそが、私たちの信仰のエンジンとなるのですから。

『芳洋』R183.8月号「風」より

去る七月五日、父・清水與一が静かに息を引き取りました。
父の出直しに際しましては、皆様より鄭重なるご芳志を賜り、またご厚情をお寄せ頂きましたこと、心より厚く御礼申し上げます。誠にありがとうございました。
また、故人の生前中には、皆様より多大なるお力添えを賜りましたこと、重ねて御礼申し上げる次第でございます。ありがとうございました。

父は、兵神大教会の五代会長として、また、教会本部の准員、別席取次人としてつとめさせて頂きました。
五代会長の足跡を簡単に振り返らせて頂きますと、
 
昭和22年9月4日、兵神大教会四代会長・清水國雄、久子夫妻の長男として誕生。以後、おぢばで育つ。
天理幼稚園、天理小学校、天理中学校と学びの業を修め、天理高等学校に進学。
昭和41年1月21日、おさづけの理を拝戴。
昭和41年3月、天理高等学校を卒業。昭和41年5月、教人となる。
その後、四代会長の命によりブラジルに渡航、ブラジル芳洋教会の設立を手伝う。帰国後、神戸学院大学に入学。
昭和48年5月、本芝大教会長・白木原明宏、よしゑ夫妻の長女・白木原俊子と結婚する。
昭和50年1月、長女・初女誕生。
昭和51年3月、神戸学院大学卒業。
昭和52年11月、天理教青年会本部・副委員長を拝命。

昭和54年7月26日、兵神大教会五代会長の理のお許しを戴く。10月29日には、創立90周年記念祭と併せて、就任奉告祭が盛大につとめられた。
昭和54年9月、本部詰員を拝命。
昭和55年7月、兵庫教区主事を拝命。以後、平成13年まで7期、21年間勤める。
昭和60年12月、別席取次人を拝命。
昭和61年1月、本部准員に登用される。
昭和61年4月、海外布教伝道部オセアニア課長を拝命。
昭和62年6月、神戸ポートアイランドのワールド記念ホールを会場に、「陽気ぐらしの集い」を開催、また一方で、チャリティーバザーを数回にわたり実施し、収益のほぼ全てを神戸市へ寄贈する。

平成7年1月17日、阪神・淡路大震災により、大教会の本館、東館、その他の建物が損壊。その中にも、自ら陣頭指揮にあたり、多くの被災者の受け入れを進めるとともに、部内教会の安否を確かめるため、原動機付きバイクで巡回する。
平成11年10月24日、創立百十周年記念祭に代えて、おぢばで記念行事を開催、五千六百余りの人々がおぢばに帰り集い、本部西境内地で総立ちまなびを実施する。

平成12年、淡路島で行われた「淡路花博」では、行政側からの要請を受け、兵庫教区管内教友の力を結集する中、その陣頭指揮を担って花博の成功に大きく寄与する。
平成13年6月、兵庫教区長を拝命。
平成13年9月 脳内出血で入院するも、全快のご守護を頂く。
平成16年4月、兵庫県宗教連盟の理事長に就任。さらに、「叡智の会」の初代会長をつとめる。
平成16年5月、教務支庁での講演中に、脳幹出血を発症し倒れる。
平成17年12月、長女・初女の婿として、山名大教会より諸井慶政を迎える。
平成24年6月、肺水腫により40日間入院。
平成24年9月26日、清水慶政が兵神大教会6代会長を拝命。在職33年を以て、大教会長職を退任。
平成25年10月、腰部脊椎管狭窄症により2ヶ月間入院。以後、自宅看護を受け、療養生活。
平成27年、急性心不全で入院。
令和2年6月26日未明、極度の貧血と呼吸困難で緊急入院。7月4日、退院。
7月5日午後11時47分、自宅にて慢性心不全で身上をお返しする。満72歳。

以上、ごく簡単に振り返らせて頂きましたが、その功績は枚挙に暇がございません。
しかしながら、五代会長の人生は、幾多の大ふしや自身の身上と、どちらかというと波乱万丈の人生であったように感じます。脳幹出血を患ってからの約16年間は、後遺症と闘いながらの苦しい日々でした。また、最後のひと月は、極度の貧血から呼吸困難となっておりましたので、さぞ、しんどかったことだろうと思いますが、最期は俊子母と初女に見守られる中、自宅で静かに、穏やかに息を引き取ることができました。一人娘の初女が歌う「みかぐらうた」を聴きながらの最期だったということで、とても安らかで幸せな最期だったと思います。
兵神につながる皆様には、父の生前中、大変お世話になり、また、ご迷惑もおかけしたことと存じますが、皆様より賜りましたご厚情に、父に成り代わり心より厚く御礼を申し上げる次第でございます。
この後も、兵神大教会の上に、変わらぬお力添えを賜りますようお願い申し上げ、御礼のご挨拶とさせて頂きます。ありがとうございました。